國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

恋しくて

http://www.youtube.com/watch?v=r7QQGa2msOA

 

神戸の子と遠距離LOVEしてた話はたまにしてて、それはなんだかおれの中では書きやすいので書いていて、でもそれ以外だとどこか生々しかったり、自分のみっともなさやなんかを晒すのに躊躇があり、書けなかったりしていて。

 

その神戸の彼女のことはでも逆になんで書けるんだろう?

出会いもつきあいも別れも後ろめたくないから、かな?

人にはどこか話しやすい話で。

ふつうの恋愛話として。

他がどうとかってより、なんていうか1エピソードになっていて。

中身が軽かったとかってことじゃなくて。

でもともかく自分の中でも整理がついているみたいな感じがあるからかも知れない。

 

おれは10代20代では恋愛なんてことは全くしたことがなく縁がなくって、だからそういう時期に恋愛経験のある人がとても羨ましい。

10代、そしてまあ大学生ぐらいか、そんな年齢で恋愛とかしてみたかったってほんと切実に思う。

もしそうできていれば、いまはもっとヘンなコンプレックス抱えないで恋愛、それに結婚とかだってできてたかも知れないし。

その、いわば無責任につきあえる時期になにもできなかったことで、どうしても今でも誰か女性を求める場合に安定よりも、この年(48歳)だというのに不安定なものを求めてしまっているんだと思う。

思春期~青年期になかったものをいまこのいい加減時期を外れた時に求めている。

そんなの上手く行きっこない。

 

ただ不安定とか安定とかいって、おれの場合、恋愛に限らない、有り体にいってネット始めるまでは友達らしいものもいなかったし、あとそれに伴い大学は(バブル真っ只中に)卒業したにも関わらず就活とかがまったく出来ずそれ以来、仕事についてはいつも、いまに至るも不安定なまま、低収入なまま、というのがまた輪を掛けてあって。

 

女性とのつきあいでも、20代半ば以降、まあ学校出た後とかは、経済を抜きにはむずかしくなってくる。

おれが余程の女たらしならば無職で女に食わせてもらってみたいな路線だってあるだろうけど、もちろんそんなタイプじゃぜんぜんないし、その場合だって「無職云々」てのは大学生ならばそもそも発生しない事案なわけで。

社会人てやつになるとどうしたって経済事情は絡みつかざるを得ない。恋愛するにしても。

それはべつに羽振りがよくなきゃとか、大層なプレゼントをしなきゃとかって話じゃなくて。

女性の方だって生活、そして将来を考えざるを得ないわけで。

 

おれはそして数少ない女性のうちでおれがなんの仕事だろうと収入が低かろうと、そんなん気にしない、いっしょにやってけばいいよみたいな女性には惹かれないみたいなところがあって、せっかく向こうがそのつもりだというのに、おれがそういうのを敬遠してしまうみたいな傾向があり、まったくおれは愚かだとしか言いようがない。

 

そう、さっき書いたみたいにおれは安心できる相手や生活よりも恋愛に伴う激情みたいのを強く求めていて、それじゃー上手く行くはずもない。

自分の親を見ていれば、結婚した妹を見ていれば、身近にそういうケースがあるのに、ちゃんとパートナーと生活を築いていく、そこにこそある喜びだってあるわけだし、そうなればふわふわした気持ち自体が減じていくことだってきっとあるのだろうけど。

恋に恋してるってことなんだと思う。この年になっても未だ。

そんなのTVドラマや映画で満たしていればいいものを。

なのに現実に求めてしまうだなんて。

そんなことできるのは、していいのは余程の金持ちか、生活はどうあれ、なにがあっても生きてりゃいい、ぐらいの気持ちのでかいヤツにこそで、おれみたいな小心者には手に余るなんてもんじゃなかろうに。

ばかで愚かで仕方がない。

 

おれが生まれて初めて女性とつきあったのは30歳を過ぎてから。

でももうそうなると経済は重い課題、欠かせない課題にならざるを得ない。

けれどおれは30歳になり、それまではビデオ屋の店長だったりしたのが、ようやく割のいい仕事、週休2日で、給料もわるくなく、残業代はした分ぜんぶ出て、更に都心に職場はあり、帰りはいつでも新宿に寄れて、所沢に一人暮らし、仕事自体は気楽で職場での気遣いみたいのが一切ないところで、まあそんなでようやく気持ちが安定したところがあり、ようやく人並みというにはあれだけど、休日をエンジョイできるようにもなり、職場では気楽におしゃべり出来る相手もいたし、まあそんなで。

 

気軽じゃあったけど将来性のない仕事でもあったけど、でもおれにはようやく訪れた遊びの時間というか。

やっと余裕ができた、みたいだった。

でももうその時点で30歳過ぎてたわけだけど。

ただ世間知らずのおれは30歳過ぎてるってのがどういうことかよくわかってなかった。

ふつうなら学校卒業したら、あるいは20代半ばも過ぎたら、そして30歳がタイムリミットで、そこで将来から老後に掛けての人生設計、まともな仕事に就くとかマンション買うとかなんかそんな、をしなきゃだめなのに(自分がよくても世間が許してくれない)、それさえ知らず。

ただほんとに30歳で入った会社がいろんな意味でおれにはそれまでになく好都合だったんだ。

客観的情勢はおいといて。

 

で、閑話休題、恋愛だ、つきあうことになった2人目、その彼女とはすぐに上手く行かなくなり、別れることになったけど、そのときにすっごい思い知ることになったんだよね。

自分の年齢でいえば、もうそれなりの仕事に就いてなきゃならないことが。

それなりの収入がなければならないってことに。

それは失恋と混じり、というかもしかしたらそっち(経済)の比重が大きかったかも知れない、世間知らずのおれが直面した生々しい現実で。おれがウブすぎたってのはひとまず。

あとセックスのことでもすっごいキツかったなー。

彼女とのセックスがどうとかってことじゃなく、なんていうかセックスに関してのコンプレックスが彼女と知りあったことで噴出して。

その彼女はおれとは割と似たタイプで友達も少ないし、世渡りも上手くないし、性的なことにもコンプレックスを抱いていたんだけど、そこらへんは割と共感できたというか、共鳴した分、おれの中のコンプレックスが刺激されたんだと思う。

そして共鳴はしたとはいいながら彼女は女性で、女性の性欲やなんかにも間近で接することになって、それで自分の中の童貞的な部分が強くやられてしまったりで。

(追記:彼女はおれとつきあってる最中に素人ヌードの専門誌でハダカになったりした。彼女自身が性的にコンプレックスあって、その延長というかそういう感じで。おれは当時なんとなく彼女が怪しげなのは分かり、更に口を割らせることもできて知ることにもなったけど。ハダカんなったこと自体はそれほどにはショック受けなかった。なんていうかおれにもどこかそういう気持ちがわかるみたいなところがあって)(あとそうだ、彼女が当時友達になった女の子となんだかレズ的なことがあったみたいなことも聞いて、そっちはちょっとショックだったかも知れない。女性相手に浮気されたってことがじゃなくて、なんていうか、おかしな話だけど彼女に性的に追い抜かれたとでもいうか。自分は遅れてる、みたいな)

 

で、まあその彼女と別れ、精神的にもどうかしてしまい、電車に乗っててもいたたまれないことも当時度々あり、(適当なこというと)パニック症候群みたいな風にもなったりしてた。

まーほんとにいろんな意味で傷ついたんだなー。心が。

あとそれと一日に7回も8回もオナニーしてたりした。

オナニーしてるとその間ラクなんだよね。生暖かい中に浸っていられて。

気持ちが不安定だと性欲って高まる傾向があると思う。

いやらしいこと考えてると気がラクなんだよね。

現実逃避できる。生理的な感覚も伴った上でだから、確実に現実逃避できるというか。

白昼夢か。意識的に見るそれ。

あまりに落ち込んでしまうと今度は性欲がなくなったりもするけれど。それはそれでキツイ。虚無ってほんとあんな感じだ。性欲がなくなったとき。心がメタメタになって。

あれ?その彼女んときだっけ?性欲なくなったの?それでその後で怒涛のオナニー時期が来たんだっけか?憶えてねー><

 

それで彼女と別れてからしばらくしてHP始めた。

その彼女が動機になってる部分は大きいと思う。

更にネットのおかげでおれはその後いろいろと救われたし、いろいろと変わったりもした。

 

一人目の彼女のことは書いてないけど、上記。その彼女のことはまた別の意味でいろいろとあるし、おれには意味合いが大きいことでもあるので書いてないとは言ってもなんもないとかじゃなくて、いろいろある。

 

で、HP始めるキッカケ(?)のその彼女との失恋はそれなりに当時はでかいことじゃあったけど、今はもうなんかぜんぜん済んでるし、なんかそんなこともあったなー、みたいでもある。

ただ女性とつきあう際に生活・経済問題が大きい課題になってしまうという意味では今でもそうだし、端緒でもある。

 

ただあれだよな、職場で飲み会の席みたいなとこで出た話で思わされたのは、おれのいまの仕事は経済的には恵まれない待遇のわるい職種なんだけど、おれ自身が生活から逃げてるんだってことなんだよな。

みんな周りは恵まれてはいない中で結婚とかしてるし、相手がなんだろうと、相手の親がどう言おうと、相手の女性といっしょにいたいって強く思ってそれを実行すれば、たとえ砕け散るにせよ、やることやって、だからね。   

でも実際のおれは始めから逃げ腰だし、そんなんじゃどうしようもないもん。

そうだそうだ。おれは恋に恋してるとの込みで生活がしたくないんだ。そんなの無理なのに。もう50歳になろうというのに。老後がつい明日の話だというのに。

青春コンプレックスを抱えたおれは結局は大人になりたくなくて、青春がしたいって思いから逃れられない。

 

ほんとはもっともっと書き足りないことが幾らでもエピソードでも感情や考えもあるので、書けたことはほんの一部で、話し足りなくてしょうがないけど。

 

それであれだ、「最大の失恋話」ってことですが、それはいまは書けません。

上記の話は当時はすげーショックだったけど、いまはもうとうに済んだ話だし、いま同じような相手に出会ったとしても、自分にも余裕があるしで、昔の自分の話みたいなところがあって。

 

書けないそれが「最大の失恋話」ってオチ。

 

追記:

でもまあ大きいとか小さいとかはないよな。時間が経てばそれだけ気がラクになるとかはあるにしても。

どっちがどっちってなもんじゃなくて、出会った相手はいずれどうあれみんな運命の人には違いなくて。

恋愛に限らないし。それは。(小栗左多里「カナヤコ」参照のこと)

思いは具体的にあって、具体的で生々しい分、書けないこと、書きようのないこともいくらもあって。

10年も経てばエピソードとして、それでも話せる場合もあるかなって。

キリはない。考え出したら。答えがあるわけじゃない。

「ポエトリー アグネスの詩」

「ポエトリー アグネスの詩」見るなう。新宿武蔵野館

年配の人、多い。ポエトリー。おれもだ。年配。

こういう風にしかし年配の人が多いと、上映時間の長い映画の場合、みんな尿意とかたいへんなんじゃないかと、おれ自身がしょんべんが近いので心配してしまうが案外平気みたいだ。

ポエトリー、川面がはじめ映り、最後はまた川面で終わる。

ポエトリー見て、街中へ出て、なんだか映画のつづきみたいだ。 

ポエトリー見た後のなんだろう、この気持ち。日常と地続きの、この感じ。平穏でいて、でも感動してる。なんだろう。

映画がどってことない町中の、どってことない様子を淡白に映すから、そういう意味でも日常とは地続きなんだけど、でもそれだけじゃないんだ、映画の外にあることも含めて、世界は当然あって、その映画の外側の世界へちゃんと届こうとしていて、届いてもいて、平俗さもつまらないイライラも、あるいは町を歩いてるだけじゃ見えない暴力も意地汚さもずるさも、みんなみんなひとつの世界にあって絡み合ってて、くっついたり、離れたり、じゃーそこで、人間はどう生きていて、どうしたらいい?って問いかけていて。

いや、でも同時に激しくこの世界を告発してもいるんだ。静かな映画の見た目とは違い。激しい憤りが確実にあって、そのもどかしい思いを、敢えて叫ばずに一見穏やかながらけれど訴え、そしてなお希望を提示しようとしていて。残酷な世界へひとつの提案を。

この世界が残酷なのも、人間がロクでもないのも、悪人と善人に大して差がないのも重々承知で、でも陽射しはそこに暖かく差しているし、身近な人のちょっとした思いやり、親切が人を救う。

おれ、「ポエトリー」観てる時、体調もあっておしっこしたかったりで少し落ち着かなくて、だから上手く映画にノレなくてもいいや、感動し損なってもしょうがない、とりあえず気軽につきあおうと思い見てたら、最後、震えてた。うわあ、って感じだった。しばらく泣いてた。外に出ても。いまも余韻は残ってる。

カメラは「シークレット・サンシャイン」とおなじく空を向かず、太陽を映さない。一度、太陽が見えたと思ったら、それは河に照り映えるそれで、カメラが少し上を向くと太陽は一瞬映るが、バスの走るのに応じてすぐに消えてしまう。

でも陽射しは「サンシャイン」はある。確実にある。それを神と呼ぶ人もいるし、そうじゃない人だっている。でも「サンシャイン」があるのはたしかなんだ。

シークレット・サンシャイン」では主人公のそばに冴えない男がいる。主人公の悩みや宗教的な懐疑なんかとは無縁な平凡な男。けれど彼の思いやりと親切が彼女に「サンシャイン」をもたらす。それはぜんぜん劇的なもんじゃない。気がついたらそばにいて、わるくないじゃないか、程度の。ちょっとホッとするくらいの彼の存在。

「ポエトリー」ではオヤジ・ギャグ飛ばす、下品でちょっとうんざりするような平俗な男が主人公に寄添い、手助けをする。ちょっとした思いやりと親切。

立派な人が救ってくれるわけじゃない。救われる側もべつに立派なわけでもない。「救い」は人と人との関係性の中にある。

何度も反芻したくなる映画。「ポエトリー」。見終わった後で、それぞれのシーンを思い出して。それぞれはどってことないそれなのに。「生きている」ことがひとつひとつのシーン、カットにある。過剰に意味づけがあるわけじゃない。象徴してるとかじゃない。いま、ここに絶望と平俗と希望が同時にある。

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映画のはじめ、病院の待合室でTVにどこか中東を思わせる場所の紛争のニュースが映る。「ポエトリー」は元になる事件自体は大きなことだが、映画の中ではそれほどに激しいことは起こらない。

韓国でもバスはPASMOみたいなんで乗り降りすんだなー、って思った。

韓国のヘルパー事情が知りたくも思った。主人公の彼女はヘルパーだが、私的なそれに見えたし。

亡くなった女の子の母親と主人公が出会う場面、2人は世間話をする。(母親は彼女が誰かには気づいてない)

人はあんな風に話す気がする。世間話を。

そして主人公がその母親に背を向け歩き出すとハエの羽音が聞こえてくる。それほどに大きな音じゃない。けれどノイジーに。そのサウンドトラックの細やかさ。

主人公が帽子を川に落としてしまい、流れ行くその帽子は波紋をつくるけれど、それは控えめでけれどきれいなそれで、あれはCGなんだろうか?もしかして。微妙に微細で、自然にはああはなるものだろうか?と思い。

主人公がヘルパーとして介護している「会長」がバイアグラを使ったりもするが、バイアグラかー。はぁ。数年前までは他人事だったんだけどなー。(´Д`)ハァ…

 

インターネット、はじめてからいままで、そしていまは?

”Jody Watley - Everything”

http://www.youtube.com/watch?v=gD0GJrm8lYE

夜でも朝でもとりとめなく過ごしてることがほんと多くて、休みは少ないとはいえ通勤は30分ほどだし、拘束時間が特に長いということもないから、遅くても20時過ぎ、まー朝早い場合(7時)もあるけれど、以前勤めていた会社で7時前には家を出て22時過ぎまで仕事して帰宅すると零時まわってるみたいなケースはいまはないので、そういう意味では在宅時間は長いのだけれど、でも結局無為に過ごしている場合が多い、というか「無為に過ごしている」と後悔しながら過ごしている時間が。

それでそんな時間になにをやってるかっていえばいまならツイッターだし、前はそうじゃなくともネットしてるわけで、インターネットは時間の魔術師。

 

おれに限らない、一般にもネットに淫してる人は多かろうと思う。

さみしーんだよね。声を求めてる。

コミュニケーションを。

だからツイッターみたく、リアルタイムでバンバン更新のあるものへといつかは流れていく。

いや、さびしーっていっちゃうと違うなー、刺激が欲しい、ううん、人恋しい、それだ。

 

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もちろんネットでなにを見ようとついっとで幾ら会話しようと、気の利いたこと言おうと、現実に動かなきゃなんも変わんない。映画観てても音楽聞いてても、なんかそんな気になれるってだけで、生活は1ミリも変わらない。人はそうそう動かないし、動けない。

それに日常がいやだからつまんないからそれから逃れたいってのがあるよね。だからネットに淫して現実逃避。

現実逃避ってぐらいだから現実は放っておいてるわけで、それじゃ現実の変わろうはずもない。

現実変えるのめんどくさいから、なんかそんな気になれる世界へGO!

 

でもじゃー、ネット以前に仕事か、そういう拘束される時間以外になにをしてたかっていうと、やっぱりとりとめなく過ごしてただけで、ネットのせいじゃないよね。無為は。

おのれの性格がそれだってだけで。

 

でもネットだと変化はそれでもある。ある場合には結構ある。

人と出会える、これがいちばん大きいかなー。やっぱ。

恋人もできたし、友達もできた。

 

滅多に来ない質問なのに上手いこと書いてやろうとかって構えちゃって、こうしていまごろ。

ま、ありがち。

 

音楽とか映画とかの話が昔はとにかくしたかった。

友達いなかったから、ほんとそういうのに飢えてた。

高校の時は砂を噛むような感じだったし、卒業してからは浪人中も大学に入ってからもずっと友達ができず、親友とかそんな意味じゃない、文字通りのぼっち、いまならネット用語(?)で大学で「ぼっち」みたいのあるけど、あれがそれだ、それで卒業してからもちゃんと就職もできなかったし、結局音楽や映画に関してはすごく好きだったのに、いつまで経っても話し相手ができなかった。

悶々としてた。

 

たまにポツンポツンと話す相手もいたけど、でも大したことは話せなかったし、ポツンポツンだし。

ずっとたまってたなー。言いたいことが。わだかまってたと云ってもいいぐらいに。

 

インターネット始めたのが97年かなー?

はじめは会社にあったPCで見るようになった。

でも当時はねー、ダイアルアップだし、グーグルもYouTubeもはてなもついったもなんもない頃だから。

それでたまに自分が読みたいような興味持てるような共感できるような読み物に出会うとうれしかった。まーそのへんのネット黎明期についてはあれこれ書いてる人もいるでしょう。

それで気になるHPの掲示板にぽちぽち書き込みするようになって、やがて自分でもHPを開設。98年。

そっからまー本格始動だよねー。

 

それで少しづつオフ会的に人に会ったり、自分の掲示板に書き込みもあるようになったりで。

 

あとおれに限らないと思うけど、ネットがなかったらそもそも文章書いたりしてなかったって人、大勢いると思うんだよね。

なんかもやもや表現欲求みたいのがあっても、特に小説だの書くわけじゃなし、ハガキ職人になるわけじゃなしで、自分の中にただ持ってただけで表明する手段をキッカケを特に持たなかった人が、ネットだと文章書くことんなるわけで、気がついたら結構書いてたみたいな。

向き不向き、やってみないとわかんない、機会がなければ一生埋もれてたというね。

 

おれも自分が文章かける、得意だとは気づいてなかったからなあ。書きだすまでは。

それがいざ自分でHPこさえるんで書きだしてみたらこれが結構書けちゃう。

けど「書けちゃう」ってことに気づいたのはずっとずっと後。

書いてる時はネタ書くのがたのしくて、ただ書いてるだけで、そういえばそれまで文章なんてまとまって、人に読ませるものなんて書いたことなかったってのはずっと後から気づく、と。

 

日記も少しは書いてたこともあったけど、ネット以前、でもおもしろみには欠けてたと思う(それらはもう捨てちゃった)。

やっぱ人に見せる、見られるって前提だとちょっと変わってくんじゃないかなー?文章でもなんでも。

ただ他人を意識するってのとは違って、なんてゆーか、ネタっぽくなるっていうか。なんだろーなー?

上手く言えない。

 

ネットなかったら、でもおもしろい文章書いたり企画立てたりしてなかった、音楽や映画の話を特にする相手もなかった、たまにいてもそれほど突っ込んだ話をする相手もいなかった、気の利いた言い回しでことば遊び的にものを言う相手もいなかったし、そういう相手と知り合う、つきあうなんて発想自体なかったって人はいっぱいいるよねー。きっと。

けどまあこういうのってネットには限らない。

文明が発達するのに連れて出会いや才能が発掘されるのって。

TVなかりせば、ラジオなかりせばって人だっているだろうし、ギターが流行ったからミュージシャンになった人もいるだろうし、明治になって小説ってのが出来(しゅったい)、それがキッカケで物書きになった人もいるだろうし。

ただネットの場合はあれだよね、それ以前と違うのは、文章に才があったとしてもプロになる確率が低い、あるいはプロにならなくてもおもしろいものを書いてける、人前に出せるってトコなんだろーなー。

だから昔は(いまでもそうだろうけど)、ギョーカイに入れるようなコネや図々しさ偶然があるってだけで大して面白くもない、というか積極的につまんないような人でもデヴューできたり、仕事んなったりね。

才能あるけど、そのへんがだめだとまーだめってのは、まーそういうもんだよね。

それはしょーがない。

でもっていまは殊更にプロになる必要はなくなって。

でも同時にプロっていっても単にギョーカイに入った入れただけの人にしか過ぎなくて、才能のあるなしはまた別の話だってのもある意味ハッキリはしてきてるかも。

でもこうなってくるとエッセイとかコラム的なものを書いて生計を立ててくのはいまはむずかしいんだろうなあとも思う。

素人でいくらでもおもしろい人がいるから。

いまだとたとえば中野翠はデヴューできないよね。

彼女がもしブログとか書いててもそれほどの注視は集めないだろうし、多少人気が出たとして、じゃーエッセイストとかで食ってけるかっていうと、いまはねー。

中野翠はその凡庸さがなによりよかったんだと思う。そこがいちばん受けてた要因。ハードルが低いっていうか)

 

それでネットしたらこれはもう音楽でも映画でも小説でも話す相手、話の通じる相手はいっぱいいて、そういうのに段々馴れてくに従って、いつの間にか「誰かと音楽や映画の話がしたい(できないから)」って欲求がすっかり解消されちゃった。あたりまえんなったっていうかね。

あと自分でも書くから表現欲求も。

だからそのせいなのかなんなのか、つか、おれの性格ってだけだろうけど、文化系の彼女とつきあいたい、文化系カップルんなりたいみたいな気持ちがおれにはないなーとわかるようんなった。

 

で、以上は今朝書いたんだけど、いまはもう22時過ぎててしかも金麦飲んじゃったょ。

もっとちゃんとつづき書くつもりがもぉ、ねー(^^ゞ

だるくなっちった(・∀・)

 

後で直すかも知れん。

とりあえず出しちゃう。早漏気味に。

・・・それ以前に最近はED気味だけど(T_T)

 

以上、まとめるとだね。

1.モテる

2.自己表現欲求が満たされる。満たされてMANZOKUしちゃう。

3.モテる

4.文化系おしゃべりができる。いまだとついったで日々ペチャクチャ

5.モテる

6.友達ができる

7.モテる

8.自分に文章能力あるのを発見できる

9.モテる

10.いい仕事に就けたりはしない(リアリズム)

11.モテる

12.痩せられる!(これはウソ)

13.モテる

 

以上だ!

BMW

 John Lennon - Nobody Loves You  

http://www.youtube.com/watch?NR=1&feature=endscreen&v=TjGcJc7lPYA

しょっちゅう思うがバブル崩壊とかって、バブルの象徴みたいだったBMWがこんなにカジュアルに、埼玉の地方の町でもいっくらでも走ってるんだよなー。

けどいま。なんかフシギ。つか、アンバランス。

つか、Maji言うと、高度経済成長してわかったことは「オカネじゃしあわせになれない」ってまさにそのことで、じゃーカネじゃ解決しないんならどーすっかってことのはずなのに、未だに富の再分配のはなしかよー、みたいな。

そーじゃねーだろってしょっちゅう思うゎ。

富の再分配は結果だよ。富の再分配をしよーぜってなった時点で、もう既になんか実現してる。

問題は富の再分配しよーぜ、とはならないってこと。そもそもが。

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四谷いーぐるヒップホップ講座つづき (そしてプリンス)

プリンスの子供たち。

ティムバランド、ネプチューンズディアンジェロ、そこらへん、誰にいちばん影響受けてるかって、やっぱまぁプリンスかなとありきたりな思いつき。

『Drop it like it's hot/Snoop Dogg featuring Pharrelle』

http://www.youtube.com/watch?v=GtUVQei3nX4&ob=av3e

↑ コレってほとんどプリンスってか、プリンスの『KISS』。

(プリンスはYouTubeじゃ中々お目にかかれない>< 特に「KISS」はダメだよねー)

んでもって『Drop it like it's hot』を下敷きにしてるっぽいのがコレ ↓

ポチョムキン "T.I.P. feat. Punpee from PSG"

http://www.youtube.com/watch?v=o5432cs7cLg

↑ ショートのギャルが気になってしょうがない。カワイイ的な意味合いで(*´∀`*)ポワワ

ほんで、先日の喫茶いーぐるでの「ヒップホップ講座」のレポートがコチラに(Pt.1 & Pt.2)↓

よくまとまってるし、YouTubeのリンクもあるし、非常に助かる。ステキ(人´∀`).☆.。.:*・゚

「いっき」のJAZZあれこれ日記

http://ikki-ikki.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-d61f.html

http://ikki-ikki.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-f666-1.html

それと店長の後藤さんの先日の講座についてがコチラ↓

http://d.hatena.ne.jp/eaglegoto/20120130

テクノロジーが人々の聴感を刷新していくダイナミズムの現場を垣間見る面白さ”

落語、歌舞伎、シェークスピア、まーそこらへんもおんなしもん繰りっ返しやってるわけで芸能ってのは大概そんなもんなんかも知れん。そもそもが。

あとレコード、それ以前に楽譜、そういうもののあるまでは音楽ってライヴでしか存在しなかったわけで、そういった場合、その場の盛り上がりってことじゃループしてそこに歌なりラップなり、なんかしらの楽器なりを載せてくってなりやすかったんじゃなかろうかと思いつきの憶測を。

ループする音楽こそが普遍なのかも? ここらへん気になる。

「音楽」ってものがまた、どういう場面で、誰が鳴らしていたかってのも考えたいところ。演者が特定の身分に限定されるようになったのはいつ頃からか。また一方村人こぞって演奏してたりってのもあるわけだし。「誰が」音楽を奏でていたかってのは気になるテーマ。

「プロの奏者」ってのは割りと最近の話なんじゃないか。あるいは身分で限られた者だけが、つまりは被差別階級としての演者という存在。地域性とか、宗教とかも当然関係あるよなー。

「誰が」ともうひとつ並んでじゃー「いつ」音楽は奏でられていたか?ってのも気になるテーマ。

いまってもう音楽がどこにでも溢れてるけど、例えば明治時代とかはいまからしたらすんごい静かだよねー。きっと。

街中で音楽といって、生演奏のない限り、レコードもない時代には音楽は聞こえて来ない。

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当日の講座では「ヒット曲しかかけない」という趣旨もあったけど、そして「売れているものがいちばん前衛的」なアメリカのチャートみたいな話があって、けど考えてみれば60年代はいちばん売れてるものがいちばん前衛的だったわけだよなぁ。ドアーズ、ビートルズシュープリームス、etc.

ビートルズの「サージャント・ペパー」が「難しい」って受け取られ方してたんだから、いまからするとフシギだ。

売れてるものの話をしないと意味がない。

売れてるものこそが音楽史を反映し、理解を促すものだとも云える(かどうかは知らん。考えずにこのフレーズは書いている)。 

あとやっぱYouTubeジェネレーションだよな。

おれはYouTube大好きっ子だから、YouTubeはとにかくネットの幾つかの発明の中じゃ、おれにはいちばん重要ってぐらいなもんだし、YouTubeで古今東西あらゆる音楽を聴ける、聞いている世代ってのがいったいどんなふうに音楽を捉え、聞き、産み出してゆくのかはやっぱ気になる。

Lil B - The Wilderness

http://www.youtube.com/watch?v=P5baKJpILEw

四谷いーぐる ヒップホップ講座

ドライブインてもんはなくなった。

そしてこの「ドライヴイン」て単語をいつも忘れる。「あの街道沿いにある個人経営の飲食店、なんて名前だっけ?ロードなんとかじゃなくてー」みたくな。

四谷いーぐるのヒップホップ講座ではどなたかが「私はティムバランドなんかと同世代なのですが、彼らの起こした革命にはまったく気づかないままつい最近まで来てしまっていて、そのことを悔いています」みたいなことをゆってたのが印象的だったなぁ。正に「文化系のためのヒップホップ入門」でタッチしたかったのはそういう人なんだろうし、そういう人に声が届いたってことでもあるわけだから、なんかちょっとよかった(;_;)

おれはずっとロートルのロック・ファンで70年代止まりみたいなんでずっと来てて、それがある日、10年ぐらい前だと思う、「ヒップホップ」ってもんも聴いてみようか、試しに、みたいんで意識的に聴き始めた。

んで、はじめはおれでも名前を聞いたことのあるアイス・キューブとか何枚か聴いてみたんだけど(当時はYouTubeもないし、おれにはレンタルCDって概念もなかったんでちゃんと買ってたんで、そんな枚数ガンガン増やせなかった)、「これならべつにファンクだしなー、ラップじゃなきゃいけないってのもなんかわかんないし」みたいな風でしばらく、ピンと来ないまま、何枚目かに買ったアルバム、ギャングスターの「Daily Operation」、これで目が覚めた。はじめ聴いて「うわ、なにこれ?!こんなことんなってんの?!ヒップホップって?!」ってんでいきなりヒップホップが「わかる」ようんなって、それからはもうギャングスター以前に買ったもんも楽しめるようになってきたし、それとRhythm NationってR&B、ヒップホップなんかを扱ってるサイトに出会って、文章に惹かれるもんがあったんで、いろいろたのしくなって来たってのも大きい。

それでおれがヒップホップを聴けるようんなったのはちょうど南部サウンドがのして来た頃で、元々ブルースも好きだし、例えばザ・バンドみたいんだって好きだしさ、サザンソウルみたいのとかも好みの音だったせいもあるのか、素直にはまっていった。だから逆に言うと、おれは東西のそれを後追いで聴いてて、南部産がリアルタイムなんだよなあ。だから東西への思い入れもなく、南部産にも素直に入ってけた。

あと、そうしてヒップホップを意識的に聴き始めたのともつながってるんだけど、おれ、いつからか、それまでスルーして来た音楽やなんかにも寛容んなろうと思うようになってたんだよな。その頃。

だから拘りなく、気持ちよけりゃいーじゃん、で聴けるような準備もできつつあった。つか、それまでがヘンに頑なで70年代止まりのロック、ソウルみたいのしか聞こうとしてなかったから、そのタガが外れた。したら、もうなんでもイケるし、ニューミュージックでもなんでもよけりゃいーんじゃね?みたいになってけたの。

当日の講座でこっからが本番てことでティムバランドとかの南部モノになると抵抗がある人たちがいて、おれには「いや、こっから更におもしろいじゃん」て感じだったんで、そのへんの拘りが逆にフシギな気もしてた。

いーぐるの店長の後藤さんはその点柔軟で、紹介されるものをおもしろいって感じてて、そういうのっていーなーって思ったりもした。バリバリのジャズ・ファンがそうだってわけだし。

でも一方、ほんとにジャズが好きなら、他の音楽のよさも生理的にも素直にわかるはずだよなーとも思う。グルーヴの肝所を捉えることには長けているはずだから。

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というか、音楽でも映画でも新しいものに否定的だったり、ある種のジャンルを観もしない聞きもしないで否定するような人たちって、というか観たり聴いたりしていてもなお否定的だったりって場合、要は頭で観たり聴いたりしてるんだよね。

映画でも例えばアート映画だと、ああいうのわかんないとか気取ってて云々みたいに云う人って、映画を観るのにまるで学校の読書感想文みたくなことを要求されてるって思い込んでて、読書感想文的なことが書けないと(云えないと)いけないって思い込んでる。自分の観たままでいいのに。映画の中の女の子が履いてたスカートの赤がきれいだったとかそんなんでいーのに。主人公が食べてた菜っ葉炒めたのが美味そうだったとかそんなんでいーのに。

なのに、まずはちゃんとあらすじをまとめて云って、更にテーマについて解説して、最後に私はそのテーマにつきこう思いますとかって書かなきゃいけないみたく思い込んでる。その思い込みのせいで目の前に見えてる、見てるものが見えなくなっちゃう。これはまあ、でもなんでもそうなんだけどさ。人間は目の前にあるものをそのまま見ることができない、頭の中の観念が勝ってしまい、それに従ってしまうという。

音楽だって、これはなんのジャンルで、そのジャンルには特に詳しい人がいて、みたいななんとなくの雰囲気や印象で「聞けなく」なってしまう。単にノレばいいだけなのに、ノル以前にそもそも「聞いていない」。ちゃんと物理的には生物学的には聞こえているのに、「聞いていない」。

単に見る、単にノル、ってことは実はとってもむずかしい。頭のタガをはずすのはとってもむずかしい。

でもアート映画を、モダンジャズを、ヒップホップを「観れない」「聞けない」人たちでも、例えば100円ショップでコップを選ぶことは難なくしている。デザインのどちらかがいいかを素直に決めている。そのコップを選んだ理由は「なんかこっちのがかわいいから」ってことで、具体的には説明なんかできはしないのにしっかりと実際に「選んで」いる。自分の目で観て感じて「選んで」いる。なのにそれがこと、音楽とか映画とかになるとそういう見方、感じ方が止まってしまう。

頭のタガをはずすのはむずかしい。

ヒップホップは聞かないけど、黒人音楽が好きだって人、特にニューオリンズファンク(プロフェッサー・ロングヘアーとかジェームズ・ブッカーとか)が好きだみたいな人はでもリル・ウェインやティムバランドとかすぐに馴染めるんじゃないかなー?って思う。セカンドラインってだけじゃない、どこかコミカルだったりとかそういうのも共通してるし。

Lizard

King Crimson - Lizard

http://www.youtube.com/watch?v=O_uMfX9HcyY

はじめのうちは、まあめずらしいがすぐ飽きる。それが毎度。いまんとこ割りと更新してるけどさー。できればまいんちしたいね。日記だ日記。はてなブログ

つか他の人のブログをめっけてゆけばよいのか。しかしめっけかたがいまいちわからん><

あと、はてなブログは写真は1個は載っけないとなんとも見た目が地味ぃ。なんでなんでもとりあえずその場でモニターの写真でもなんでもいーから載っけてく方向で。

あとできれば20歳代までで映画とか音楽につきおもしろいことを書いている人をめっけてゆきたい。これは前からの希望。どうしてもはてな周り、30歳代以上だからさー。知ってるの、ってか興味持てるの。でも同時にもっと若い世代ではなんぞアプローチ、表現の仕方に変化がとも思うがんなこたないな。

文化物を巡る言説はもう出尽くしてしまっていて、いまさらなうなもんのありようもないか。どーなんだろ?映画や音楽って物自体が珍しい時代は当然とうに過ぎてしまっていて。・・・この先にオチがつけられない><

映画でも音楽でも「なんか作品があって、それについて語る」ってことじゃあ、みんないっしょだしなー。とはいえ言説に盛り上がりはそれぞれにあるんで、じゃーそれでいーじゃないかと。たまの盛り上がりに出会えたらそれで。φ(`д´)メモメモ...

以下、以前よそに書いたもんの再掲。

今朝、数年前、失業中のメモ帳、半ば日記みたいもの、ふと目に入り中を見たら、なんだか結構充実してた。1年近くあったその失業期間て、おれにしては結構人に会ってたり、学校行ったり、なんかたのしかった。

ただ、その頃につきあいのあった人で、いまは連絡も取らなくなった人なんかいて、そういうのってさみしいなぁって思ったりもしたけど、人付き合いがあるって、でもそういうことなんだろう。

おれはともだちもなんにもいなかったから(30歳過ぎるまで)、人と別れることもなかったから。でも若い時ならまだしも、年を取り、それでも出会った人、出会えた人とはなればなれになってゆくのはちょっとさびしい。

でもまあそういうもんなんだろうけど、それで納得ができるくらいなら生きてることに悩まないよな。そもそも。

人と知り合うことは別れることとセットで、でも。(女性関係のことを特に言ってるわけじゃないよ)

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↑ サロン・デュ・ショコラにて。サダハルアオキの「マカロン焼き」。とはいえ要は今川焼き。