RO

デヴィッド・ボウイ専門誌みたいだったROが「レッツ・ダンス」と軌を一にしてメジャー化し、変わっていったこと。
ベルリンでのボウイから「レッツ・ダンス」へ。正に80年代の始まり。70年代の終焉。ロックの終わり。
80年代後半、とてもプライヴェートで日本のロックなんて聞いてるとは思えない渋谷陽一
「ROジャパン」を創刊したこと。(さすがな商売人の鋭い勘だ。)
現在のレコード業界、出版・放送業界には元RO読者がいっぱいいるであろうこと。
70年代にはなにか思いを抱えてる、あるいはなにか云いたい若いもんが思いを寄せる、
あるいは表現するメディアがROぐらいしか、正にROこそがそれだったこと。
渋谷陽一が「ROは生き方雑誌なんだ。それがよかったんだ。」みたいなことを言っていたこと。)
なんてえか、同世代的というか、同じくらいの歳の人間がやってるような感じでもある点。
憧れ、尊重できる、ではなく、共鳴できるメディア。
ロッキング・オン」と言う名のロック・バンドみたいなもんだ。雑誌というメディアでロックしてたんだ。
「ミュージック・ライフ」じゃバカみたいだし、「ミュージック・マガジン」じゃオヤジ臭い。
岡崎京子飯干景子も読者だった。他になかったんだ。ああいうのは。
心情を寄せやすく、自分にも語る契機があると思わせてくれるものは。
ROが基本的には投稿雑誌であったこと。
(ゲイ関係のライターの伏見憲明の名をともだち募集欄かなにかで昔のRO見てて発見したこともある。)
そして80年代以降はメディアが多様化し、発言・発表の場も増え、
特にロックを聴いてどうのじゃなくとも自分なりの方法を見つける人たちが出て来た、出て来れたこと。
その中でそれでもまだロックを聴き、それを契機に語ろうとする人というのは限られて来ること。
80年代後半あたりから渋谷陽一はプライヴェートでは殆どヒップホップ、R&Bばかり聴く様になったこと。
実際ラジオではよくかけてたし、熱を入れて語ってもいた。(相棒のスティーヴがリリックの解説をしてたりしてた。)
そしてそれが「ロック雑誌」をやっている自分にとってはちょっとマズイ事態だと何度か言っていたこと。
80年代後半からレンタルCDとカラオケ・ボックスの普及によって
現在のJ-POPの前身とでも云えるロック的なサウンドが一般化、メジャー化したこと。
そしてその後、RO読んでるような人間にもまともに「ロック」だと認められるようなものまでが
メジャー化する土壌を形成したこと。
そして90年代、日本のロックのメジャー化によって、邦楽をネタにしても思いを語ることが可能になったこと。
そしてそれは日本語であるということ、ミュージシャンが同じ日本人であることによって、
より自分に引きつけて語りやすくなったこと。
そしてまた場合によっては実際のつきあいも生じる可能性が高くなったこと。
そもそも70年代、日本にロックなんてものは存在しなかったこと。
(まず演歌、そしてニュー・ミュージックとアイドル歌謡の時代。)
全共闘世代、少し遅れて渋谷陽一と同学年程度でもビートルズを聞いていた、
ロックに関心のあった人間なんてクラスにひとりいればいい方であったこと。
「ロック」というだけでそれはイコール売れないことを意味した。
その壁をロック・バンドとして初めて壊したのはサザン・オールスターズであったということ。
渋谷陽一が嬉しそうに「これはいい」と言って「勝手にシンドバッド」をラジオでかけたのを憶えている。
まだ曲がヒットする前だ。ニュー・ミュージックとは明らかに違った。)
ロックを聞いているという事自体がカウンターであり、なんらかの意思表示として機能したということ。
ROでは77年当時パンクへの言及といったものが殆どなかったのは創刊メンバーがオールド・スクールの
ロック・リスナーであったのはもちろん、いわばRO自体がパンクみたいなもんであったということ。
渋谷陽一が取次ぎの仕組みもなんにも知らず僅か二十歳で雑誌を創刊したことを思えば。
それにそもそも「ロック」が存在しないのにその否定、カウンターとしての「パンク」だなんてありえようがなかったこと。
まず「ロック」の方をなんとかしなきゃならなかった。世間への認知なりなんなり。
そしてパンク、ニュー・ウェーヴ以降の動きに応じたROの次の世代と渋谷陽一とのズレ。
次世代の社員がみな一流大学をちゃんと出たエリートばかりになったということ。
創刊メンバー4人のうち、松村雄策は高校中退→夜間高校卒業、渋谷陽一は2浪で明学、
しかもロクに行かぬうちに中退(7年くらいは在籍してた筈だ。ラジオやってる時点でも確か席があった。)
橘川幸夫國學院大学中退、岩谷宏だけは京大を卒業し、ちゃんと就職もしてたと思ったが、ドロップアウト(?)。
まさか今みたいにROが学生の人気就職先になるなんてなぁ。感慨。