姫野カオルコ

以前キーワード登録したばかりの頃は殆ど引っ掛からなかったんだけど、昨今は言及率が高まったよなあ。
やっぱり『ツ、イ、ラ、ク』効果ですな。直木賞候補、ってのも大きく作用したみたい。
しみじみ(日本・乃木大将)。
で、『ツ、イ、ラ、ク』の感想と言いつつ、おれの書いているのは、書こうとしているのは
姫野カオルコ論なのだった。先日書いたものだって、ぜんぜん『ツ、イ、ラ、ク』から遠く離れて
(って程じゃないが、ここはそれ、「〜から遠く離れて」ってのは定番なので、敢えて使用。)
いるのだった。韃靼人。《 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた 》
出来ればそんなわけで『ひと呼んでミツコ』『ドールハウス』(これはやはりどうしたって旧題の
『空に住む飛行機』の方がいいんだけどなあ。それは置いといて。)あたりから説き起こして、
各長編を軸に、更に短編にも要所要所触れつつ、最後には『ツ、イ、ラ、ク』に話を持って行って、
ドカンと最後に花火を打ち上げた上で、なお軽く締め括る、って感じで書いてみたいもんだが、
そんな力量はおれにはない。第一、一通り読み返したりするべきで、そもそもそれが出来ない。
でもやってみたいんだよなあ。でっちあげ。もちろんそういうのんて、野暮といえば野暮で、
姫野カオルコとはこうですとか、『ツ、イ、ラ、ク』とはこういう作品です、などと
言ってしまうと、多くの物を取り逃してしまい、作品の持つ豊穣を印象として痩せさせて
しまいがちじゃあるが、でもまあ、こういうのは一種の遊びなので、それもまた良し、
ってなもんだ。評論、感想というのは百万言費やしても、けして作品そのものには
ならないのが宿命で、しかしそれでも作品に触れたら、オシャベリせずにはいられないのも
また性(さが)。というか、オシャベリの楽しみはやはり楽しみで、ただ口を噤む必要もなく、
作品と論評は常に着かず離れず、時に摩擦を起こしつつも、それがコミュニケーションてもの、
いつも上手く行くとは限らない、そもそも常にスムーズである必要もなし、摩擦もまた生きている証。
ただ印象を小さく、貧しいものにする愚だけは避けるべし、と。
そうは問屋が卸すとは限らないけどね。でも、やるんだよ。あっは。
『ツ、イ、ラ、ク』では官能的なシーンに至るや、欲情するよりも、ああ、いまおれはひとりだなあ、
こういう愛交(うわあ、いやったらしい言い方。なので気に入り、以後も機会あれば遣うとしよう。)
とはしばらく御無沙汰、そしてまた愛交時に於ける、その空気、印象を自身の内に甦らせるに従い、
むしろ切なくなるばかりにはなった。