國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

日記

どっか出かけたり、映画観たり、なんかそんなことするたんびにあれこれ書きたくなって、
事実書いたりもしてるけれど、そういうのん書くのにいちいち何時間も掛かってしまうので、
そのぶん生活(部屋の片付けとか)が疎かになってしまう。しかし書かずにいられない。
それに「どっか行った」ぐらいならいいんだけど、書く以上はどうしてもその周辺のこと、
思いついたこと、思い出したこと、それらを全部記述したくなってしまい収集がつかない。
キリがない。それに周辺のことも含めて、肝になることばや言い回し、展開などに、
いいアイディアはないものかと考えたりする時間もあって、そういった躊躇い、戸惑い、ぼんやり、
などなどの時間も更には掛かるのでまったくに時間の浪費だ。でもやめらんない。
書くこと思いつかない時でもなんか書きたいので、「ああ。うう。ええと。」などとなんか
出て来るのを無駄にモニターの前で唸って待ってしまったりもする。そんなことしてると
夜更かしにもなりがち。あとせっかちなので、とにかく一通り書くと、とりあえずアゲてしまう。
せっかくしばらく前から出来たプレヴューの機能を有効に使ってない。だって
まどろっこしいんだもん。出来たら即アゲ。そんでそれから細かいとこ直してみたり。
更にアイディアが沸いて来るのを待ったりする。出来たもん見て、それを叩き台にアイディアが
再度、3度沸いて来るのを待つのもしょっちゅう。大体なんでもそうだ。別にここに文章を
綴るってだけでなく、物事、とりあえずやってみて、それから考える、やり直すってやり方は。
待ってられない。溜めてらんない。せっかち。
昨日書いたのだって、ほんとは海見ながら考えてたこととか、見掛けた人たちとか、帰りは
みなとみらいの駅から東急東横線で渋谷経由で帰ったとか、デュシャン展と同じ会場で観た
マン・レイハンス・ベルメールの写真のこととか、会場で見かけた人たちのこととか、
学芸員のおねえさんが、ひとり、きれいな人がいたとか、あんな取り付く島のないような
作品の並ぶ会場で、見張り(学芸員?)のおねーさんたちとか、黙ってじっと立ってるのって
どんな気分で、一体なに考えてるんだろうなあとか、それに会場のトイレを掃除してる
おばさんとかにしたら、あんなもん、わけわからん、下らんもんだろうし、そうじゃなくても、
映画でも哲学でもなんでも、あらゆるものはそのギョーカイとそれに関心のある人にだけ
意味があって、それ以外の人とは無関係であることや、よく思うのはむずかしい、
それ自体としては整合性もあって、意義深くもあろう思想とかって、果たして、そこらにいる、
車でユーロビートとあゆ流してる人とか、2人で10万円にも満たない年金で死なない程度に
暮らしてるような夫婦とか、なんかそんな人と一体どういう関係があるんだろう?
役に立たないことだけは確かだ、腹の足しにはならない、映画や美術ならばまだ趣味、
お遊びの範疇としても、哲学とか思想とかって、だって人民を救うつもりだろうに、
まったくに「つもり」でしかなくて、映画で救いのメッセージ観て涙流してるのと実は
まったく変わらない、ギョーカイの中で、その人の気持ちの中で完結してるに過ぎない、
だからきっといろいろメンドくさいこと言ってるような人でもいざとなると、社会党から
立候補とかしちゃうんだろうなあ(社会党ってもう古いか。でもおれは世代的にそういう
イメージなんだよ)、そんなことしたら、せっかくことば積み上げて築いたものが台無し、
でもやっぱり自分の手で、自分の目の前で「救い」を「変革」を見たくなっちゃうんだよなあ、
寿命なんてせいぜい100年ぽっち、それで我慢できず、実効力が欲しくなっちゃう、
本来、理想ってのは子供たちの子供たちの子供たちが幸福になるべくのものであろう筈なのに、
実のところ、自分自身の満足、自己表現、「自分らしくありたい」願望、自分捜しにしか過ぎず、
正義はしばしば自身のギラギラした欲望の肯定、言い訳になりがちで、リンチとか強制収容所とか、
暴力と性欲に彩られやすく、で、なんだっけ?まあともかく、その他その他、
思いつく限りのことを書いたりもしたかった。