國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

NANA

あれはやはり吉祥寺店だった。タワレコ。
グーグルったら2秒でわかってしまった。なんて味気のない。ああ。
こういう疑問てさあ、ある日ふと立読みした雑誌にちょろっと書いてあるのを発見したり、
たまたま聞いたラジオで誰かが話してるのを聞いたり、
吉祥寺のタワレコ行ったときに、ポップかなんか見て、「あ。そうなんだ。やっぱり。」
って気づいてみたり、なんかそういう答えとの出会い方をしたいのになあ。
グーグルした途端に分ってしまうだなんて、まったくに風情のない世の中だ。
宮崎あおいの資質もあるけれど、大谷健太郎って人はそもそも
「男の子のことばかりで頭がいっぱいのバカな女」、みたいのを描けない、
描きたくない、描こうとか別に思わない、単に興味ない、
そういう人なんだと起きてさきほど気がついた。
これまでの作品でも「バカだなあ」って感じの、
たぶん監督本人をモデルにしたと思しき男はいつも出て来たけれど、
女性は総じてちゃんとしてるのだった。
そうじゃなくとも、登場人物を突き放して、
こんなのがいる、みたいな描き方はそもそもする人じゃない。
出て来る人それぞれに愛情を感じる、感じてしまう人なんだと思う。
そういう、監督が愛情を感じられる人間しか登場させるつもりがない。
まして、バカな女、みたいなのはまったく監督の描くところではない。
大体、映画「NANA」はハチのモノローグ、というよりナレーションで
進行してゆくぐらいで、ハチが頭の軽い女の子じゃ、話が成り立ちようもないのだ。
ナナとの出会いを回想し、ナナとの出会いを喜びとし、ナナにありがとう、って言う、
そんな女の子だ。映画のハチは。ナレーションをしているハチは。
だからまあ、ハチのいかにもそれらしい行動、言動、恋愛体質なそれらとは
実はナレーションをしているハチは相反している。