國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

血と骨

ガンボ

ガンボ


菊次郎とさき」の方がよかったなあ。これなら。
(これに限らず映画観て、いまいちと思う度、
それなりにたのしめたTVドラマを思い浮かべてしまう。)
これならば「カオルちゃんシリーズ」の方がもっと真実味があったよなあ。
ちゃんと岸和田してたしさあ。
いっそカオルちゃんの脚本と監督の人でリメイクを。
あとアニメにするとよいと思う。「火垂るの墓」が成功したみたく。
チビノリダー、キッスもドキドキの電車男の末があのオヤジならば、
鈴木京香を手篭めにしてたり、濱田マリをハダカに剥いてたりしてたけど、
実はあれが正体なのか。彼奴は。いつしか伊東美咲を無理矢理ヤッちゃったり
しちゃうんだろうか。やはり。人は見かけによらない。ううむ。
岩代太郎って最近よくクレジットで見かけるような気がするけど、
この「血と骨」でも彼の音楽が重苦しく響いており、若干胸焼けする。
音楽といえば最後の方、ちあきなおみが流れていて、そこまではたぶん流行歌は
使われていなかったと思うが、どうせなら要所要所、歌謡曲を流すって手も
あったんじゃないかとつまらぬ思いつきをした。
時代が現在に近くなるまでがあまりに書割りくさく、平ぺったい。
こんな調子じゃ「日本三文オペラ」や「日本アパッチ族」が映画化できない。
あ。でもやっぱそれらもアニメ、特にアパッチ族は可能か。
日本三文オペラ (新潮文庫)

日本三文オペラ (新潮文庫)


日本アパッチ族 (光文社文庫)

日本アパッチ族 (光文社文庫)


エキストラに覇気がない。群集の熱気がない。
帰国運動での見送り場面、「キューポラのある街」の同じく見送りシーンにはやはり劣る。
あちらはなんつってもほぼリアルタイムみたいなもんじゃあるし、
それに肯定的に描いてる風に取れるから、観ていてドキドキして来てしまい、
とても心配になり、やばいだろ、これ、って気持ちになるもんなあ。
あのやばさ、熱気にはちと勝てない。
オダギリジョーの役は遠藤憲一だよなぁ。
エンケンじゃないと納得できない。
あとたけしの役はソン・ガンホで。ずっと朝鮮語でいい。日本語しゃべんなくてもいい。
てか、たけしが一番のミスキャストだもんなあ。まずいよなあ。軸なのに。
迫力ないし、存在感ないし、覇気ないし、エロもグロもない。
暴力が単に立ち回り。崔洋一だからそれなりに重みはあるんだけど。
でもあれならば「寺内貫太郎一家」の家族のケンカの方がずっと迫真力あったよ。
力強かった。情がこもってた。熱気があった。
年寄りになってからのたけしの顔がむしろ安心して観ていられた、無理がなかった、
ってのはまずいだろ。おじいちゃんなんだよ、実際がところ。たけしのオーラは既に。
崔洋一って長野の人なんだよなあ。
関西ローカルの話を長野〜東京方面の人間が撮るってのはやはり無理があるのか。
「月はどっちに出ている」は公開当時、殆ど宣伝もなく、あの頃はまだ
北朝鮮の「き」の字もメジャーなメディアからは聞く事見る事は出来ず、
もちろん韓流ブームなんて影も形もない、単館公開で、おれがしかし新宿に観に行った時、
劇場は満員立ち見のぎゅー詰めだった。
そこでおれのすぐそば、おじさんが2人、顔を合わせ、どうやら知合いだったらしく、
一人が声を掛けると、もう一人の方はなんだか気まずい様子で、
なにがどうなのかはわからない、ただしかし当時、在日ということに関しては
語るのも関心を持つのも憚られる、なんかそんな気配はまだ強かった。
子役が全般によかった。
平岩紙ちゃんがかわいかったです。
田畑智子ちゃん、バタモコチンがかわいかったです。
でもかわいそうでした。
路地の風景がともかくだめ。ウスッペラくて。
歳月が過ぎ、世の移り変わりを反映させているはずだのに、
そうした感慨が観ていて伝わらない。
セットとCGの組合せにしか終始見えない。
路地風景は特にそうだが、全般に生臭さ、生々しさ、汗臭さ、猥雑さ、
そういったものがぜんぜんない。デオドラント済み。
たけしが蛆虫つきの生肉を食らう場面があるのだけれど、
観ていてぜんぜん気持ち悪くもならない。
かまぼこ工場もまるで渡鬼の「幸楽」みたいで、食い物作ってる匂いがしない。
台の上に魚がたくさん積まれ、それを職人が包丁で切って、加工していくのだが、
観ててぜんぜん魚臭くない。生臭くない。ただ魚がいっぱい積まれているだけ。
他にもブタを吊るしたやつをたけしが中心になって血抜きして、捌く場面もあるのだが、
これまたぜんぜんなんともない。「地獄の黙示録」で牛の肉捌くショットとか、
藤田敏八の、前後に関係なく、唐突に豚の屠殺のショットが挿まれる、あれなんだったっけ?
ともかくもその映画とかの方が余程迫力があったよ。
たけしの乱闘シーンが別に大した感慨もないのに対して、時代が下り、
現在に近くなって来てからのバタモコチンが寺島進に殴られるシーンの方が
ずっと暴力の陰惨さが感じられて怖ろしかった。というか、この映画、
今に近い時代になるとようやく、画面にも力が出て来る。
つまりは古い時代を再現したシーンがてんでウスッペラ。
そのせいもあってか、後半、たけしが娘の葬式に乗り込んで来ると、
古い時代のセットからそのままやって来たかに感じさせるたけしが一人、
画面から浮いているのだ。他のキャストは残らず自然にその場に納まっているのに。
崔洋一、みのもんたに骨抜き、血抜きされたか。(上手い!われながら)
ココア飲んだり、ところてんとか食って健康になり過ぎたか。
鈴木京香がひとりまじめに演技に取り組んでいる風が見えて、彼女の場合、
たけしとは違い、浮いてはいないのだが、逆に重く沈んでいる。
けしてわるくはない。役作りをちゃんとしている。
しかしそれがこの映画ではアダになっている。
銭湯でたけしと息子がケンカするシーンがあるのだが、風呂場が妙に明るくキレイ、
今風(べつに仕様がそんなやたらモダンなわけじゃないんだけれど、
少なくとも現在ふつうに営業している銭湯を使用しているようにしか見えない)
なのも気になったが、風呂の中にああして投げ飛ばされたりしているのを見れば
これはどうしたってガンバルマンを思いださざるを得ない。
して結果はガンバルマンの方が迫力あったよ。熱湯風呂。
濱田マリがたけしに服を剥かれ、押し倒されるシーンで、おれの頭の中では
あしたまにあ〜な」の濱田マリ歌う主題歌が流れ始めてしまい、それがしばらくつづいていた。
時代を表すためにその時代、その時代の子供たちの遊びが再現されていたのだが、
まず冒頭、路地で女の子が竹馬に乗っており、なんだかそれがまるで
説明している風にしか見えず、おれはその時点でちょっと困ったなあ、
この映画だめかも、と思い始めたのだった。
他にも田畑智子が子供を連れていると、その子の腕にはダッコちゃんがぶるさがっており、
道の反対側では男の子たちがフラフープをやっているのだった。
いやさ、時代は確かにあっちゃいるんだろうが、なんとも取ってつけたようでなあ。
他の場面での子供たちの遊んでるとこも大体そう。取ってつけたよう。
最初と最後だけ、「19○○年」とテロップが出るんだけど、でもどうせなら時代ごとに、
それ、あってもよかったんじゃないかなあ。その方が見ててしっくり来たと思う。
さりげない風俗で時代を示したかったんだろうけど、こういう話の場合、年号は大事だ。