國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

TAKESHIS'

自由の幻想 [DVD]

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土曜日にTVで石原慎太郎ビートたけしの対談てのがあるようだが、さっき「めざましテレビ」で見た、なんとその番組、爆笑問題が司会だ。爆笑問題といえばかつて浅草キッドと揉めたりなんかしてたはずで、まだ売れない頃、どうなんだろう、もう手打ちしたのかなあ。慎太郎なんかより、そっちが気になった。
イメージの連鎖、MTVならば「マジカル・ミステリー・ツアー」の頃から、映画でならば「アンダルシアの犬」の昔から、マンガならば「ねじ式」があるし、それ自体はそれほど取り立てたことではない。そうだ、CMってのもあった。その手で云うならば。(以上作品名はレトリック、わかりやすいもんを出しただけであって、厳密に云えばもっと適切なものもあるだろうけれども、この場合は単に前振りなので
細かいことはなし。←説明。)あとは作品そのものの出来不出来、魅力のありやなしやということであって、あたりまえだ、そうした場合「TAKESHIS'」は上位にランクインするとはとても云えない。
即興演出がアダに出て、芝居がどれもこれも薄っぺらいんだもん。その場を単に取り繕ってるだけにしか見えない。芝居をしている自意識が透けて見えてしまい、見てて恥ずかしい。表面的なのがいけないわけではもちろんなくて、夢幻的なはずの映画で妙に日常臭い、素が垣間見えてしまうと、感じられてしまうと、見ていて物足りなくなる。もっとイカせて欲しい、って思っちゃう。
例えば撃ち合いをして、結果星座になるなんてのは、そのアイディア自体はわるくないが、ただそれが映像化された場合の力がこの映画にはない。ただアイディアだけがある。まったく同じ素材、同じシーン、同じ展開、同じアイディアでも、この映画が素晴らしくなった可能性だってある。少なくとも愛すべき失敗作としてのオーラが存在した可能性はある。でもここには肝心の「なにか」が足りない。決定的にない。「みんな〜やってるか!」にさえなれなかった、なりようもなかった。それが「TAKESHIS'」。というか「みんな〜やってるか!」に於ける失敗、撮影中からスタッフが引いていくのが如実に分ったと幾度か語っていた筈、それがやがては自殺未遂ともいえるバイク事故へと繋がり、しかし一度は帰って来た、それが「キッズ・リターン」、文字通り「リターン」して来たのだ、けれどもビートたけし北野武は事故で決定的に失ってしまった。手術でなんとか再生したその顔からは豊かな表情が。そして目には見えない「なにか」を。
深見師匠の薫陶が身に沁みているビートたけしは芸人として「コント」と「タップ」に対して余人には理解できない執着がある。コンプレックスがある。まるでどれだけ自分が売れようが評価されようが、所詮素人上がりなんだという自覚が常に付き纏っているかのような。本当の芸人になるには「コント」と「タップ」が必要なんだと、それを極めなければならないとどこかで思っているかのような。
しかしもちろんビートたけしの「コント」がおもしろかったことはかつてなく、<「タップ」は他人への訴求力がさらにあらず、本人の芸人としての資質はべつなところにあるのに、でもそれじゃ満足できない。そんなわけで映画監督北野武は「みんな〜やってるか!」を作らなければならなかった。シリアスなプライヴェート・フィルムの監督だけには納まるわけにはいかなかった。「芸人ビートたけし」を映画の形で実現、表現しなければならないと思ってしまった。そして自身の映画監督としての資質に見合っているとはいえない「みんな〜やってるか!」を作り、失敗し、やがては事故へと。
(こんな風に「たけしは」みたいな感じで書くとなんかなあ。他人事みたいで冷たい感じじゃないか。これじゃ。)