國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

松江哲明Pt.2

さすがのおれでも汗を掻くが、しかしこんなん、20代の頃、昼日中、夜遅い仕事だったりで、アパートで昼間、冷房なぞなく、難なく寝ていたことを思えばまるきりなんともない。っつか、暑いとは思うが、それがつらいとは思ったことがいつもない。暑ければサウナ入ってるみたいで気持ちいいではないか、「ではないか」と言ってみたかっただけの類。
http://d.hatena.ne.jp/andre1977/20050313
http://d.hatena.ne.jp/andre1977/20050314
→こんなあたりにかつて「アイデンティティ」を観に行った時の感想があった。
そうか2005年か。この頃は映画、結構見てて、熱心に感想書いたりしてたんだ。おれ。
「セキ☆ララ」のじった君は確かおれと同い年か、一学年くらいは違ったか、ともかくも略してゆえば同世代、つまり、布袋寅泰町田康岡崎京子、「ポケモン」の田尻智、町山智弘、ブラッド・ピットトム・クルーズ、なんだかそこらへんと同じで、じった君、父親とは不仲なのに部屋住み(実家住まいのこと)、なんとなし乱雑な部屋、でもカオスってほどでもない、フツーに生活実感のあるその部屋、煮え切らないまま「生き方上手」になるべく思ってもいる、そんなのが、身につまされる。あんまり他人事な気はしない。いろいろと違うのにね。彼とおれ。けどさ。でもさ。

生きかた上手

生きかた上手

じった君のヒーローはマイケル・ジャクソンだったり、ブルース・リーだったり、生き方本みたいの読んでたり、特攻隊の本とかあって、なんだかそんな風で、けどおれだって彼とはアイテムが違うばかりで、その実は変わらない。いつかおれは気づいたが、生き方本読むのも、ヴォネガット読むのも、後者の方が気の利いた風じゃあっても、実体は変わらない、上手く生きられなくて、救いと慰めを求めていて、そして本だの音楽だの、その本が人に依り文学だったり、哲学書、政治論の類だったり、あるいはビジネス書だったり、人生読本とかだったり、ケータイ小説だったり、音楽もアウトキャストだったり、アヴリル・ラヴィーンだったり、ミスチルだったり、湘南乃風だったりと、モノが違うきりで、その正体はみんないっしょ、束の間幻想に浸り、けれど朝起きるとまたすぐに着替えて仕事に行かなきゃならず、なにも変わらず、変えられず、自分なんか世界にとってはほんのケシ粒、別に意味なんかない、毎日何十万人だか、何千万人が死んでるのか知らないけど、いつかその数にたった一個を増やすだけの存在、というにはそんな「存在」だなんて大層なもんではない、生まれてそのうち死ぬだけのひとつの肉塊、悩んでも悩まなくても死ねば結局なんにもないだけのはなし。
ええと、いったいどういうはなしをしていたのか、いまでは思い出せない。ほんの数行かそこら前に遡ればよいだけのことだとは思うが、過ぎたことはすべて過去、しかし思い出しているのは常に現在なので、記憶とは常に現在だと、意味のありそうで、単なるでまかせをゆったところで、閑話休題。
「セキ☆ララ」は17時からで、客の入りもパラパラで、けれど、次の「前略、大沢遥様」になると席はほぼ埋まる。
監督も来ていて、以前の、って、もう2年以上前の上映会だけど、そこで見知った監督の顔、他、関係者と思しき人々などもいて、盛上がって来た感。(ヤな言い回しだ。「〜感。」)
「前略、」終了後はトークショー、それも目当てとしておれには大きく、要するに雨宮まみを見たいというそれ、彼女のことは以前どこかのトークショーで拝見、次には新宿のスタバを勝手に借りたゲリラ・サイン会以来、今回は雨宮まみ、彼女の二の腕や口元、首から鎖骨のあたりに特に注目しつつ見ていたりしたのだった。
そして「前略、大沢遥様」、後半、男優とのカラミのシーン、おれはなんだかすごくセツナク見ていて、なんだか泣きそうになっていた。これはまったくの個人的な感懐で、大沢遥がどうとか、映画がどうとかというよりも、セックスかぁ、セツネーなー、セツナイよなー、いやらしくてセツナイ、セツナクていやらしい、そんな感じをすごくすごく生々しく思い出し、思い描き、いまひとりでいることのセツナサもまた相俟って、なんかほんとセツナクなってしまい、なんだかどうしようもなかったりしてた。
けれどそんな感懐を持つに至ったのもしかし、映画の力なんだと思う。よい映画だから。きっと。
カラミ自体、いやらしく上手に撮れてもいて、もちろんそこに至るまでも充分にたのしんでもいて、だからこそ感情が溢れる準備も出来ていて、そこに呼応していた。きっと。
映画自体のテーマは監督も誰もが認めるように童貞的なルサンチマン、「こちら側」の人間でしかないやりきれなさじゃあっても、性が中心的なことには変わりなく、セックスはセツナサを呼び起こし、そのセツナサは人により、場合により、ヴァリエーションはあっても、ひとりはいつもさみしく、相手を求め、相手がいてもまたひとりにもなってしまう。人はひとりではとてもじゃないがいられない、"Lonesome No More"ってなわけで、そしてひとりでいられない、その為にはなによりセックスがないってわけにはゆかず、セックスを巡るトラブルは絶えず、そうこうするうちに死んでしまう。死ぬ前に刹那でも誰かといっしょにいたい、セックスで繋がりたい、繋がっていたい、その思いが連綿とつづき、満たされるのも束の間、キリのあるわけでなし、一部「降りる」ことの出来た人はある意味幸福、そうじゃないタイプの人間はずうっと空虚、セツナサを抱えたまま、けれど救いは誰でもそのうち死ぬってことで、死ねばぜんぶオシマイってのは、べつに云えば、救い。
つづく、のかなあ。大体、これ、感想かよ。よくわからん。
できれば、はなしは「前略、」のシーン、いくつかに戻りたいんだけど、いまはとりあえず、以上。