國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

「ポエトリー アグネスの詩」

「ポエトリー アグネスの詩」見るなう。新宿武蔵野館

年配の人、多い。ポエトリー。おれもだ。年配。

こういう風にしかし年配の人が多いと、上映時間の長い映画の場合、みんな尿意とかたいへんなんじゃないかと、おれ自身がしょんべんが近いので心配してしまうが案外平気みたいだ。

ポエトリー、川面がはじめ映り、最後はまた川面で終わる。

ポエトリー見て、街中へ出て、なんだか映画のつづきみたいだ。 

ポエトリー見た後のなんだろう、この気持ち。日常と地続きの、この感じ。平穏でいて、でも感動してる。なんだろう。

映画がどってことない町中の、どってことない様子を淡白に映すから、そういう意味でも日常とは地続きなんだけど、でもそれだけじゃないんだ、映画の外にあることも含めて、世界は当然あって、その映画の外側の世界へちゃんと届こうとしていて、届いてもいて、平俗さもつまらないイライラも、あるいは町を歩いてるだけじゃ見えない暴力も意地汚さもずるさも、みんなみんなひとつの世界にあって絡み合ってて、くっついたり、離れたり、じゃーそこで、人間はどう生きていて、どうしたらいい?って問いかけていて。

いや、でも同時に激しくこの世界を告発してもいるんだ。静かな映画の見た目とは違い。激しい憤りが確実にあって、そのもどかしい思いを、敢えて叫ばずに一見穏やかながらけれど訴え、そしてなお希望を提示しようとしていて。残酷な世界へひとつの提案を。

この世界が残酷なのも、人間がロクでもないのも、悪人と善人に大して差がないのも重々承知で、でも陽射しはそこに暖かく差しているし、身近な人のちょっとした思いやり、親切が人を救う。

おれ、「ポエトリー」観てる時、体調もあっておしっこしたかったりで少し落ち着かなくて、だから上手く映画にノレなくてもいいや、感動し損なってもしょうがない、とりあえず気軽につきあおうと思い見てたら、最後、震えてた。うわあ、って感じだった。しばらく泣いてた。外に出ても。いまも余韻は残ってる。

カメラは「シークレット・サンシャイン」とおなじく空を向かず、太陽を映さない。一度、太陽が見えたと思ったら、それは河に照り映えるそれで、カメラが少し上を向くと太陽は一瞬映るが、バスの走るのに応じてすぐに消えてしまう。

でも陽射しは「サンシャイン」はある。確実にある。それを神と呼ぶ人もいるし、そうじゃない人だっている。でも「サンシャイン」があるのはたしかなんだ。

シークレット・サンシャイン」では主人公のそばに冴えない男がいる。主人公の悩みや宗教的な懐疑なんかとは無縁な平凡な男。けれど彼の思いやりと親切が彼女に「サンシャイン」をもたらす。それはぜんぜん劇的なもんじゃない。気がついたらそばにいて、わるくないじゃないか、程度の。ちょっとホッとするくらいの彼の存在。

「ポエトリー」ではオヤジ・ギャグ飛ばす、下品でちょっとうんざりするような平俗な男が主人公に寄添い、手助けをする。ちょっとした思いやりと親切。

立派な人が救ってくれるわけじゃない。救われる側もべつに立派なわけでもない。「救い」は人と人との関係性の中にある。

何度も反芻したくなる映画。「ポエトリー」。見終わった後で、それぞれのシーンを思い出して。それぞれはどってことないそれなのに。「生きている」ことがひとつひとつのシーン、カットにある。過剰に意味づけがあるわけじゃない。象徴してるとかじゃない。いま、ここに絶望と平俗と希望が同時にある。

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映画のはじめ、病院の待合室でTVにどこか中東を思わせる場所の紛争のニュースが映る。「ポエトリー」は元になる事件自体は大きなことだが、映画の中ではそれほどに激しいことは起こらない。

韓国でもバスはPASMOみたいなんで乗り降りすんだなー、って思った。

韓国のヘルパー事情が知りたくも思った。主人公の彼女はヘルパーだが、私的なそれに見えたし。

亡くなった女の子の母親と主人公が出会う場面、2人は世間話をする。(母親は彼女が誰かには気づいてない)

人はあんな風に話す気がする。世間話を。

そして主人公がその母親に背を向け歩き出すとハエの羽音が聞こえてくる。それほどに大きな音じゃない。けれどノイジーに。そのサウンドトラックの細やかさ。

主人公が帽子を川に落としてしまい、流れ行くその帽子は波紋をつくるけれど、それは控えめでけれどきれいなそれで、あれはCGなんだろうか?もしかして。微妙に微細で、自然にはああはなるものだろうか?と思い。

主人公がヘルパーとして介護している「会長」がバイアグラを使ったりもするが、バイアグラかー。はぁ。数年前までは他人事だったんだけどなー。(´Д`)ハァ…