珈琲時光
セリフがたまにしっくり来ない場合があって、つまりは日本語として、日本人の会話として、
時に耳障りというか、耳からことばが入って脳みそにいたる過程で引っ掛かる場合もあったんだが、
そんなのはあってもよい瑕瑾で、むしろ味なくらいだが、それよりもこの映画、全編日本語なので、
一体脚本を誰が書いているのかと、映画終わりのクレジットを見たならば「侯孝賢(ホウ・シャオシェン)
朱天文(ジュー・ティエンウェン)」とあり、特に日本人の協力者がいる旨、なかった。
侯孝賢が日本語が得意という話も聞かないし、どうなんだろ、朱天文が日本語に明るいのだろうか。
(まあそれ以上に日本事情に全くに明るいことこの上ないが)それでおれはいまさっき調べるまで
知らなかったが、朱天文て女だったのね。すっかり男だとばっかり。ああなんたる無知。というか鈍感と、
この場合は言うべきものかは。中国系の名前の判断が出来ないあまり、なんとなし字面で男と
思い込んでいた。脚本の感情の拾い上げ方からすれば、女性のそれと気づいてもよかっただろうに。
少なくとも「まるで女の人が脚本を書いたかのよう」ぐらいの事をおれも書いていれば、多少の
見る目もあると自慢も出来ただろうに。「侯孝賢」ブランドにすっかり目が眩んでしまっていて、その他の
スタッフ、ましてや脚本家にさえ注意を払わずにこの十年以上を生きてきてしまったよ。ああ。後悔。
( ココに彼女のプロフィールがあるが、若い頃の写真、結構可愛い。)
メンド臭いし、はてなしか見てないが、誰もモーリス・センダックの絵本の話を書いていない。
あんなガーリー・アイテムないのにぃ。絵本だよっ、絵本。正にガーリーそのもの。
ああそうか。おれも江文也の話は全くにしてないな。
劇中、彼の曲が若干使われていたが、いかにもなアヴァンギャルドなピアノ曲といった風で、
当時の芸術家ヤングだったんだなあと思いもしたが、それはともかく、彼の話とかすると
なぜ「コーヒー・ブレイク」って題なのかとか、一青窈が継子で台湾人と日本人との間の
子供であることとかも含め、解釈というか、それぞれがなにを象徴するのかといったような話になり、
そういうのはなんかつまんないので、自分では避けときたく、人任せにするとして(人のは読みたい)、
おれはもっぱらガーリー・アイテムの話に終始したい。ただもう一度観たくもあるが、そうすると
それこそは上記の解釈的な構造などがまるきりわかってしまいそうで、それだと映画の感興が
薄れそうな気もしてしまう。映画に耽溺出来なくなるのがつまんないのだ。わざと知らぬフリを
したい時だってあるゼ。無知の楽しみ、気づかぬ喜びってのだって映画にはある。
なんとなく察するとして、それを言葉にしてしまうのを敢えて避けるのだ。
(でもほんとは気にはなるので人の書いたもんとか読んでホッとしたりしてな。)
で、おれがこの映画観ながらどんなだったかというと、なんかずっとニコニコしっぱなし、
頬が緩みっぱなし、始終楽しくて仕方がないのだった。
そういや「ミレニアム・マンボ」でスー・チーが日本に来て泊まってるビジネスホテル、
大久保あたりだが、線路が見えるような部屋だった。やっぱり鉄道好きだよ。絶対。
ついでに言うと「ミレニアム・マンボ」で未消化だった(撮影日数の都合上他で)日本描写を
完遂したくて仕上げたのが「珈琲時光」ともいえる。