國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

図書館Pt.2

昔は本でも映画でも、なんかもっと信じてたんだ。ともだちもいなかったし、
人付き合いもなく、なんにも知らなかったりで。
本が、作者が、映画が、登場人物が、監督が、ともだちだった。
友情も愛情も現実にはなく、映画の中でするものだった。それに疑問を感じなかった。
でも30歳も過ぎて幾つかの経験を積んで現実に、つまりは他人に触れる機会が
増えても来ると、そして両親が年老い、自身の死もいつか意識し出す様になると、
なんかもう、本だの映画だの、別にフィクションに限らない、あらゆる言説の類が
結局はそれだけで完結しているに過ぎない、なんの役にも立たない、
人生は、生活はそんなもんとは関わりなく、さして影響を受けることもなく、ある、
ってことが実感になってしまい、映画も小説も評論エッセイ論説その他、
なんかみんな暇潰しって点ではなんの変り映えもしない、世界は一ミリも動きゃしない、
ここにある泥臭い感情を慰撫できるのはほんとにほんとにほんの一時(いっとき)の
ことでしかないとわかってしまい、殻を外されたような気がして、
不安になるばかりになってしまった。すべて退屈になってしまった。
(それはそれですごくさびしい。図書館にいっても、本、一冊一冊がぼくに語り掛け、
守ってくれる、そんな感じは失ってしまったんだもん。)
いや、以前から常に退屈じゃあったけど、いまはコンビニでアイス立ち食いしながら
誰かとオシャベリするのに比べたら、どんなに感動する、大好きな映画であってさえも、
ぜんぜん太刀打ちできない、そう、自分が求めているものはなによりも
現実の他人との触れあいなんだってことがハッキリとわかってしまったんだ。
AVじゃセックスの代わりになんか絶対ならない。肩だって、自分で揉んだり、
マッサージ機でやるより、誰かに揉んでもらう気持ちよさ、ってちょっとないでしょ?
なんかそんな感じ。実際に他人と関わると厄介やスッキリしないこともいくらでもある。
けど、満足を得るには他人と実際に関わらないと結局は得ることはできやしない。
ヴァーチャルなんてヘの役にも立たない。現実の代わりにはならない。脳みそは
そう簡単に納得なんかしてくれやしない。ニセモノは所詮ニセモノ。
映画だって、例えば映画館で観るってことに拘る人はそこへ行くまでの過程や、
自分の年齢や状況、映画館での雰囲気、他の客の様子、その時の自分の体調、
その他その他、そういうものが込みじゃないと、ってことがあるじゃん。
つまりは平面で展開されるフィクションだけじゃ、おもしろくねーんだよ、
物足りねーんだよ、ってことでもある。「現実」がやっぱ必要なんだ。
そこには。それが人情。
そして更に映画観たら、誰かとそのことオシャベリしたいじゃん。
それも単にこうしてネットとかに文章書いたりとかだけじゃなくて、実際に
喫茶店でも誰かのアパートでも公園のベンチででも。
人恋しいんだよ。誰だってさ。要は。
他人と接することに勝ることはない。
絵に描いたモチじゃ、人の腹は満たされない。そんな高尚にはできちゃいない。人間てのは。
仙人じゃない。カスミじゃ腹はふくれない。
映画についていくら論じたって、争ったって、いくらいい映画が作られたって、
それは映画好きな人たちの中でのほんのおたのしみ、それでオシマイ、
あとはなんにもない、のだ。