國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

キューポラのある街Pt.2

原作は昔読んだことがある。中学の頃だ。
学校の図書館だ。もう既にその本はボロボロだった。
きっと発売当時とかそんなくらいに購入したものなのだろう。
そんでその本は借りて、結局返さなかった。
いまでも捜せばどこかにあるかも知れない。
さて原作では吉永小百合演ずる
「ジュン」が初潮を迎え、大人になってゆく(ジュンの母親が出産するところから
話が始まるのを思い出せばわかる)、性のめざめというやつが重要な、
思春期の少女小説といった趣だったはずで、組合だののことはあったかも知れないが、
もっとジュンの成長に焦点があたっていたと思う。
しかし映画版では彼女のまわりの人間や社会のことが大きく扱われ、
ジュンは狂言回し的役割とも云え、弟の方がもっと活き活きとしているかも知れず、
つまりは映画を撮っている人間が男の子だから自然そうなる、
思春期の女の子の微妙な気持ちやその変化みたいなものは跳んじゃってるかも知れない。
1962年の十年後とかいうことを書いたが、映画業界の、更には日活の十年後を
考えてみると興趣深い。
十年後の1972年といえば言わずもがな、日活はロマンポルノで再スタートだ。
ジュンは結局働きながら夜間高校へ行くことを決心するが、夜間部だと更に
大学へと行くのはむずかしいだろうが、しかしもし彼女が順調に進学をつづけていたとすれば、
単純に63年あたりを彼女の高校入学の年だと考えれば、66年には大学生であって、
大学紛争盛んな時代に充分間に合ってしまう。そう考えるとなんだかふしぎな気がする。
同じように下町の職人の子供のビートたけしは大学へと進学したのだ。
貧乏人の子弟であっても、遣り繰りによっては大学へと行ける時代へと変化していく。
それが60年代。階級の消滅、流動化。
(ここにまた「裸の十九才」の話を持って来たいところだが、いまは残念、時間がない。)

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そういえばバブルがどうしたとか、これからの日本は貧富の差がどうのといった
言説に対する違和感の要因が今日、パッと思いついてわかった。
みんなカネの心配しかしてないんだもん。古くて新しい命題、オカネじゃ幸せになれない、
これがほんとはミソ、考えるべきことなのに、みんな年金でもなんでもいいや、
カネが間に合うかどうかのことばっかり心配している。オカネだったならもう充分にある。
モノだって充分にある。様々な社会保障だって充分にある。
(未組織下層労働者で、ほぼカネのない、低所得者層で、しかももう若くない
おれが言うんだから間違いない。ということにとりあえずしといてくれ。話の都合上。)
なのにまだ不幸なんだ。不安で仕方がない。どう考えたって戦前の、いやさ、戦後に限ったって
高度経済成長以前の日本からしたならば例え低所得者層であろうと、
まるきりお大尽並みの生活をしている、例えば海外旅行は夢じゃない、そんな生活なのに。
かつての、貧乏からの脱出、「泪橋」は日本人全員が渡った後なのに。
なのにこうも不安が募るばかりってのは一体どうしたことなのか。カネが手に入れば、
モノが手に入れば幸福になれるんじゃなかったのか。でも現実は違った。
これだけ豊かなのにまだ不幸だ。満たされない。そしてひとりぼっち。
(で、この先は大してないが、もう時間なので、とりあえずお開き。)