國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

TAKESHIS'

だから「TAKESHIS'」がゴダールのようだったり、フェリーニのようだったり、というのは今の若い人たちには通じにくいかも知れない。昔々映画しか娯楽がなかった頃の、カネのない若い孤独なやつは誰でも映画館にでも行くしかなかった頃のことを。モラトリアムな青年たちが3畳、あるいは4畳半の殺風景な部屋を出て昼間から暗い館内に潜り込んでゴダールのフランス国旗の3色(青白赤)を基調とした明るい色彩やフェリーニの映画のサイケデリックな色彩に魅せられていた、その感覚は。「カラー映画」が華やかに見えた頃のことは。ピンク映画が「パートカラー」と称して濡れ場(いまからすれば野暮ったく他愛もない)になると突然色彩を持ったその瞬間の目の眩むような感覚は。(以上はべつに「カラー」ばかりのことについての話ではなく、それはたまたまで、ポエム、レトリックであって、例えばフェリーニの映画の持つ幻惑的な感じなどが当時、どれだけのインパクトがあったか、といったようなことで、、、ああでもこれじゃ説明だ。しちゃった。。。)
(でもこんな思わせぶりな書き方するとまるで「TAKESHIS'」がいい映画みたいだが、そんなことはないので、要注意。)
で、「TAKESHIS'」はその華やかさを4畳半の部屋に持ち帰ってみたりもしたのだが、結果は御覧の通り。芳しいとはとても云えない。「たけし」の住むアパートの柱や窓枠はまるで「中国女」かのように赤く(そして「気狂いピエロ」を受けて青くも)塗られているし、タクシーに乗り合わせた連中の様子はまるきり「ウイークエンド」の気違い道中で、しかも死屍累々の道路は同じく「ウイークエンド」の延々とつづく渋滞した車群を思わせるが、しかし結果は御覧の通り。芳しいとはとても云えない。
そして沖縄の空は曇っていた。香取慎吾とのやりとりでだったと思うが、「曇り空ならばそれもわるくない」と思い、撮影に望んだとのことだが、もうとうに肝心の「なにか」がビートたけし北野武の中から零れ落ち、消失してしまったということをそれはきっと意味する。「TAKESHIS'」にはただアイディアだけがあり(それに京野ことみのおっぱい)、それ以上でもそれ以下でもない。なにもないのと、でもそれじゃいっしょだ。アイディアはあっても映画がそこにはない。たぶんもう表現したいことが、伝えたいことがない、失われて久しい。
「みんな〜やってるか!」には捨てきれない、それでもこれはちゃんと取っておこう、ポッケに入れておこうと思わせるものがあったけれど「TAKESHIS'」にはない。バイク事故で決定的に「なにか」を喪失してしまった。それは事故後の「キッズ・リターン」にはしかし確かにあったが、「キッズ・リターン」にはビートたけし自身は出て来ない。出て来るのは若い男の子2人だ。そして「キッズ・リターン」はいつかに絶対撮られる映画だったのだ。だが撮ってしまい、終わってしまった。
オールナイトニッポンで、まだ映画を撮ることもなかった頃、番組の割と初期のうちからいつか映画を撮りたいとはトークで幾度か触れていた。それは「レイジング・ブル」のようなボクシング映画で、成功はしない男の物語だったはずで、そう、つまり「キッズ・リターン」だ。