キルゴア・トラウト
『Pictures from the film Gran Torino - Jamie & Clint + lyrics』
- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,伊藤典夫
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1978/12
- メディア: 文庫
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- 作者: ドストエフスキー,亀山郁夫
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/09/07
- メディア: 文庫
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あるときローズウォーターがビリーにおもしろいことをいった。SFではないが、これも本の話である。人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」
ビリーがトラウトとはじめて会ったのは、一九六四年のことである。彼専用のキャデラックに乗ってイリアムの裏通りを走っていたとき、十数人の少年とその自転車が行手をふさいでいるのに気づいた。集会が行われているらしい。ひげもじゃの男が、少年たちのまん中で長広舌をふるっていた。卑劣なうえ険呑そうで、仕事の面ではいかにもやり手に見えた。そのころトラウトは六十二歳であった。少年たちを前にしての話というのは、売れ残りの束を何がなんでもさばき、毎日とっているものにはろくでもない日曜版まで買わせろ、という叱咤であった。トラウトはこういった。今後二ヶ月間に日曜版の売あげをいちばん増やしたやつは、マーサのろくでもないブドウ園に一週間招待する。費用は取次店もち、本人ばかりでなく両親ともども招待。
云々。
新聞少年のうちのひとりは、実際には新聞少女であった。彼女は電気に打たれたように見えた。
トラウトの偏執病者めいた顔は、ビリーには妙になつかしかった。それもそのはず、いろんな本のジャケットで何回も写真を見ていたのである。だが故郷の町の裏通りでいきなり出くわしたので、その顔がどうしてなつかしく見えるのか、ビリーには合点がいかなかった。たぶんドレスデンにいたとき、この頭のおかしい救世主に会ったのだろう、とビリーは思った。トラウトの姿はたしかに戦時中の捕虜を思わせた。
そのとき、例の新聞少女が手をあげた。「トラウトさん・・・・」と、少女はいった。「もしあたしが勝ったら、妹を連れていっていいですか?」
「だめだ」と、キルゴア・トラウトはいった。「金が木になるとでも思ってるのか?」
- 作者: カートヴォネガット,Kurt Vonnegut,浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2003/02
- メディア: 文庫
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十時になると長らく絶版をかこっている老SF作家は、そろそろ寝る時間なので、と前おきしてから、最後に、みなさん、つまり、わしの新しい家族に、もうひとつだけいっておきたいことがある、と述べた。まるで奇術師が観客のなかから志願者を募るような口調で、トラウトは、だれかわしのそばに立ち、これからわしのいうとおりにしてくれる人はいないか、とたずねた。わたしは手を上げた。
「はーい、はーい、ぼくにやらせて」
わたしは彼の右側に立ち、みんなは静かになった。
「宇宙は」とトラウトは話はじめた。「われわれを逆もどりさせたあの小さい故障をべつにすると、とてつもなく膨張したため、もはや光はそれほど速いものではなくなり、あきれるほど長い年月を使っても、たいした旅ができなくなった。かつてはいちばんスピードが速いといわれた光も、いまでは早馬使(ポニー・エクスプレス)のように、歴史の墓場にはいってしまった。
では、いまから、わたしのそばに立つことを承諾してくれたこの勇気ある人物に、あの広い空から、キラキラまたたく、老いた光の点をふたつ選んでもらいます。そのふたつは、キラキラまたたいてさえおれば、どれでもよろしい。キラキラまたたいておらん光の点は、惑星か衛星だ。今夜のわれわれは、惑星や衛星には関心がない」
わたしはおたがいに三メートルほど離れたふたつの光点を選んだ。ひとつは北極星だった。もうひとつの星がなんであるかは、見当がつかなかった。ことによるとゲロゲロかもしれない。トラウトの短編に出てきた、空気銃の弾のサイズの星である。
「どちらもキラキラまたたいておるかね?」とトラウトはきいた。
「まちがいなく」とわたしは答えた。
「誓えるか?」とトラウトはきいた。
「神にかけて」
「よろしい!チリンガ・リーン!」とトラウトはいった。「さて、それでは・・・・そのふたつの光点がいかなる天体であるにせよ、この宇宙はとんでもなく希薄になったため、光がそのひとつからもうひとつまで旅をするのには、何万年、いや、何百万年もの歳月がかかる。チリンガ・リーン!さて、そこであんたにたのみがある。そのひとつをよく見てから、もうひとつをよく見てほしい」
「オーケイ」とわたしはいった。「はい、すみました」
「一秒ぐらいはかかったかな?」とトラウトはいった。
「せいぜいね」
「たとえあんたが一時間かかったとしても、かつてあのふたつの天体のあった場所から場所へ、なにかが旅をしたわけだ。控え目に見積もっても、光の百万倍のスピードで」
「なにが旅をしたんです?」
「あんたの意識さ」それから、トラウトは聴衆にむかっていった。「それがこの宇宙のなかに生まれた新しい性質であり、それは人間がいるからこそ存在する。これからの物理学者は、宇宙の秘密を解こうとするとき、エネルギーと物質と時間だけでなく、とても新しくて美しいなにかを計算に入れなくてはならん。それは人間の意識だ」
トラウトはそこで間をおき、左の親指の腹で上の入れ歯を押しあげ、われわれに向かって魅惑の宵の最後のひとことを述べるあいだ、それがはずれないように念を入れた。
トラウトの入れ歯は、すべてこともなかった。これが彼のフィナーレだった。「いま、意識よりもっといい言葉を思いついた。それを魂と呼ぶことにしよう」そこで彼は間をおいた。
「チリンガ・リーン?」とトラウトはいった。