國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

夢1Q和夜(ゆめいくわょ)

Sagittarius - My World Fell Down
ぼくが関越の川越インター入り口に近い歩道橋の上に立っていたのは中学3年生のときだった。夜。といって、まだ8時とかそれぐらいで、けれど人の往来のあるようなところじゃないし、歩道橋の下の国道16号を流れるクルマの数も大人しいものだった。
夏の夜でちっちゃな虫が灯りに照らされいくつもいくつも飛び、蛾も見かけた。中でカブトムシのメス(行き会うのはいつだってメスだ。それがぼくの宿命)が足もとにいた。かがんで拾ってみる気にもならず、でもしばらくぼくはそいつを眺めてた。あたまの中にはぼくのよく知らない曲、FENでこの数日で2回、さらにNHK-FMでも流れてたそれがぼんやりと聞こえていた。それほどに聴いたわけでもないし、誰のなんて歌かも知れないのに、なぜか曲だけはあたまに入っているのだった。
♪ My World Fell Down
ぼくの世界は終わってく、中3じゃ英語なんか聞き取れるはずもなく、けれど歌詞に対応したそんなフレーズがぼくのあたまには浮かんでた。
足もとのカブトムシを見てるのにも飽き、欄干に手を添え腕を伸ばすようにして反り返り空なんか見上げてたら、どこからか、
ウィンウィン ウィンウィン
なんだろう?聞こえてきたその音は。
(あ。カツヨか。いや、カズヨだったか。そいつがそんな音を出すって聞いたことがあったんだ。なんで聞いたんだろう?ラジオドラマかなんかだったっけ?TVの心霊番組?少年マガジンの読者コーナーかなんかだった?思い出せない。でもそのカヅヨだかカツマか、カツヌマか、カズヨ?それじゃフツーの名前だが、フツーの名前だったかもしれない、そのナニカがウィンウィン ウィンウィンと音を立てるのだ。それで、)
ぼくはそのとき歩道橋の上でひとりだったが、ひとりぽっちってわけでもなかった。1977年、ここに引っ越して6年、ともだちもようやくできてたし、受験勉強も順調で、クラスのまとまりもよく、最近はよくみんなでサッカーなんかしてた。運動オンチのぼくがそんな風にスポーツをたのしむなんて、これまでなかったことだ。
ウィンウィン ウィンウィン
(また聞こえてきた。いや「My World Fell Down」がしばらくよその音をシャットアウトしてただけだろう。ぼくは音楽と夏の夜と歩道橋の中に浮かびあがり、耳から聞こえてくる音に無頓着んなってたんだ。それで、)
"Sagittarius"="射手座" "My World Fell Down" なんだろう?ぼくはしっている)(いつどこで?それはわからない。ラジオで聞いた?聞いたかも知れない、けど「ぼくはしっている」、そう、それは単に曲名やなんかを知ってるとかじゃなくて。それで、)
ウィンウィン ウィンウィン
「ああ。和代。和代。和代。
ぼくは恋をしたこともないのに(クラスの中に可愛い子はいて気にはなってたし、美術の先生や近所の主婦、学校の中のあの子この子と自涜の対象はいくつもいたけれど、いざ「恋」とか「恋愛」とか云われてもピンと来ず、そういう意味じゃぼくは恋なんかしたことはなかった)、和代なんて名前に覚えはないのに、ひとり歩道橋の上で口に出してた。和代。和代。和代。
ウィンウィン ウィンウィン
和代なら知ってる。サジタリアス「マイ・ワールド・フェル・ダウン」。
だからぼくもしることになったんだ。そうか。
でもどうしてぼくが和代をしってるんだろう?しかもぼくは彼女に恋してる。それがわからない。
ウィンウィン ウィンウィン
足もとのカブトムシをぼくはまた見てた。和代への思いに打たれながら。
するとカブトムシは羽を拡げ、スイと上昇するとぼくの目の前をかすめ、国道16号のかなたへと飛んでった。
そうしてぼくの足もとはくずれた。
ウィンウィン ウィンウィン

(あの音が聞こえる。カズヨだ。いまははっきりわかる。カズヨだ。その名前はカズヨだ。和代だ。それで、)
ウィンウィン ウィンウィン
渋谷駅東口のでかい歩道橋。246の上にかかる、上には首都高速が走っている、そこにぼくはいた。昼間だった。すごく明るくて、髪の毛が熱くなるほどの日が照っていた。
そして、ぼくのまわりは川越の時とは違い、さわがしく、そこには人に似た、しかし人ではないものが、そうリトル・ピープルが多く行き交っていた。
ウィンウィン ウィンウィン
カブトムシを見送ってから時は経ってはいないのに
(ぼくの世界は終わってく、それで、)
ぼくは中学3年生ではなく、二十歳を過ぎ、大学生だった。
そして、ひとり、ひとりぽっちだった。
1Q和4年。一九八四年。
和代にはまだ出会っていない。

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inspired by 勝間和代十夜