國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

空気人形

ふたりの砂時計/丸山圭子
最近心に余裕がない。余裕があったことがこの人生でどんくらいあったかというとあまりないので、いまさらなんだが余裕がない、と云いたかった。
おれのRock'n'Rollダイアリーへようこそ
人生、リマスターしたいねー。いや、リマスターしてもしょうがないか。リメイクしたい、いや、リメイクしてどーすんだよ、こんなしょぼい人生
(←スゴイ上手いこと云った気持ちでただいまおれの心ははちきれんばかり)
CORTEZ THE KILLER, NEIL YOUNG & CRAZY HORSE
The Who - Love Ain't for Keeping
「空気人形」に関してもうちょい感想書くつもりだったが、なんだか時間が経った。どのみち大したことは書けない。思いついたこと、でももうちょい並べたかった。
ARATAがビデオ屋の店員なのに東京タワーの見える豪勢なマンション住まいだってのは、けど、彼が失意の人で、元々エリートかお坊ちゃんだったとしてもよいし、あるいは心を失ったペドゥナとおんなし、人じゃないモノで空想の、けれど生身の体を持ち、血を流すような人間ならぬ人間だという仮定であるかも知れず、それは板尾創路がああしたアパートに暮らし、父子家庭の2人も襤褸っちいトコ住んでるという描写があることを思えば、まあきっとそんな風じゃなかろうかと思いついたが、これじゃ単に説明だ。説明がしたかったのだから致し方ない。
はじめ、おれはもうちょい人形が人間になることで騒動が起きて、みたいな風じゃないのかとちょっと心配してしまい、けれどそれは杞憂に終わり、物語はファンタジックに現実的な説明なぞせず進み始めるのを見てほっと安堵し(「安堵」って生まれて初めて遣った気がする)、そっから少しノレたんだよな、けど「誰も知らない」でもそうだったけど、基本ファンタジーに行くみたい。きっと。是枝監督は。それが一種の甘さになってしまう、突っ込みが浅い、みたくな印象になり、それでいて非常に「上手く」もあるんで、映画賞向きみたくなっちゃいがちで、けどそれは資質でそうとしか撮れないのだろうし、まーオチはない。(この先あれこれ並べたり、上手いこと云ってみたりするのがただいま現在かったるいのであります。ふんわか。それで尻切れトンボ)
隅田川沿いってのはあの映画でもこのドラマでもしょっちゅう見かけて、トレンディ・ドラマかよ、みたいな気分にもなってしまい、ああそうだ「容疑者Xの献身」でも出てきたゎ、そういや、近々におれが見たんじゃ、そんで「とらばいゆ」でも隅田川の川べりで話すシーンとかあったなあ、あれはよかった、「とらばいゆ」大好きっ子だから、おれはってば、そんでなんでしょう?
そう。隅田川沿いの割と古びた汚いような家屋とか映してんだけど、そっちの方がなんか気になって落ち着かなかったなあ。わざとらしい、っつうか。昭和30年代なら隅田川沿いの貧乏描写ってのは切実、リアル、大体隅田川自体、70年代の公害ブーム以前、汚い臭いもんだったろうし、東京には高いビルもなく、川沿いにはあからさまに貧乏人が住んでいたろうし、船上生活者ってのだっていたりしたはずで、しかしいまは21世紀、隅田川近辺に「天国と地獄」的描写をされても、なんか困っちゃう。

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とらばいゆ [DVD]

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容疑者Xの献身 スタンダード・エディション [DVD]

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ってか図式的すぎてな。要は。「純喫茶磯辺」の生活の映し方の実感、それぞれの人の人生との結びつき、それとついおれは「純喫茶磯辺」の印象が強いままに比べてしまい、そうするとなー。
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ああでもファンタジックでキレイだから、ってだけじゃなくて、というか監督の資質そのものの問題だろうけど、業がないんだと思う。「空気人形」は一見性的なテーマを扱っているようで、その手つきもみごとだけれど、けど撮ってる人が性的な部分で業を抱えてる風には感じられない。それはほかのことでもそうで、いつもどこか客観的というか、他人事を扱ってるかのようで、だからファンタジックがそれどまりで、けしてはみださず、お行儀がよく、最後に血がだくだくと流れようが、それは「キレイ」なままで、ゾッとはさせてはくれない。この監督、キモチワルイ、って思えなくて、ああ、いい人なんだろうなあ、ふつうにおしゃべりできそうだなあ、と思えてしまい、性格が歪(いびつ)な方が表現は強くなるし、大林宣彦なんて、どーかしてる、キモイって感じが常にするけれども、けどそういうのがいーんだよなあ。表現て、困る。いい人だと物足んなくなってしまう。
隅田川周辺の描写ともう一個、特に気になっちまったのが、映画好き、みたいなやつで、あれって、ちょっとつらいなあ。映画好きアピールとか、慎重にやってくんないと、ああやっちゃってるなぁって、それ、抑えて欲しかったなあって思っちゃうんだよねえ。「マルメロの陽光」がどうとかさあ、あーゆーの、困る。いまはもう映画の中で映画の話すんのって、それこそはヌーヴェル・ヴァーグの時代から幾星霜、ハードル高くなってると思うんだよねえ。扱うには一工夫、二工夫ないとさー。まして映画青年が出てきて、それもARATAとさらにもう一人、なんかぼそぼそっとしてアートフィルム好きな若いヤツでしょう、それでビデオ屋(しかもTSUTAYAとかじゃない、いまどきいつつぶれてもおかしくない個人経営のそれ)が舞台で、あれこれわざとらしいポスターが貼ってあってさー。ううん。いつかはそういうのやりたかったんだろうけど、けどなあ。なんかもやもやする。見てて。
たぶんロマンポルノとかピンク映画で、そういうジャンル映画、低予算、そんな中で自分の好きな映画のこととか出しちゃったりする、なんかそんな感じをどこか思い描いて、低予算でもジャンル映画でもポルノでもないのに、監督としては気分で、いまがChance !!!みたいなのがあったんかも知れないけど、でもなー。けどなー。

↑コレは好き。小さなドラマだからかなあ?わかんない。
ああおれはさっきからなにを野暮なことを思いついた順に書いているのか。おれとしたことがペ・ドゥナのことがまったく書いてないじゃないか!なにしてんだ、おれ!誰かおれを叱って!
ってか、おれ、「空気人形」、後半泣きながら見てて結構よかったとか思っているのに、なんでさっきっからdisってばっかいんだょ。ねー。やぼちん。
ペ・ドゥナのああいう肢体とか、映画で見てる分にはもうひとつ豊満さが足りない(まあこれまた監督のスケベ度が足りないせいでもあってエロくなりきってないせいでもあるけれど)とか見えてしまうけれども、実際つきあって、彼女のあの肢体と触れ合ったら、もう愛しくて仕方ないなあ。何にいってんだかなあ、おれ、意味わかんねーし、けどきっと、夢中、彼女に。おれはきっと。ペ・ドゥナに。