國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

ポシンタン

予定通り「藍色夏恋」「ほえる犬は噛まない」を観て、「ハイスクール落書」、じゃなくて
「ハイスクール1968」を買い、「bounce」を入手して帰宅。
本来は予定外の行動として二十歳の時の麻木久仁子に似た二十歳の東京大学の女子学生と
フトしたキッカケで知合うはずであったが、それはまったく実現しなかった。
「フトしたキッカケ」がなかったのだ。単にひとりで映画を観て、天玉うどん食って、
レコード屋行って本買って、帰途についたのみである。終始ひとりである。会話は自分としかしていない。
電車の中で相当な美少女女子高生を見かけたが、見かけたのみである。
彼女がどこに住んでて何考えてるかだなんて、検討もつかないのである。
見て、ああ、おともだちになりたいなあ、でもなんの接点もないなあ、と思うのみである。
そして彼女は途中で降りゆくのみである。おれは脳中で「ああ行っちゃった」とつぶやくのみである。
本や映画でいくら色んなことが展開してたって、だからどうした、ってな具合。
電車の座席で「ハイスクール1968」読んでるよりも、斜め前方に立ってる美少女と会話出来たら、
その方がどう考えたって充実している、生きてる甲斐があるってものだ。
「フトしたキッカケ」、しかしそれは一体どこに落ちているのであろう。
映画などではよく見かけるものではあるが。
(でもそういう場面を仔細に見ると、いや別に仔細に見ずとも、
要は結局ナンパしているだけである。
おれには到底出来ない一事である。なんともはや。)
果たして「ほえる犬〜」はすべてがよかった。音楽がよかった。
見終わった後、しばらくは、なんかね、切なくなっちゃった。
美点をただ挙げるよりもひとりで余韻に浸っていたいので「よかった」の一点のみに今は。