國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

『王国(あるいはその家について)』

12月9日土曜日。この日は昼過ぎまで仕事。天気は上々。

仕事はまあ、土曜は出勤後も事務所に人もおらず、事務所出た後は外(そと)仕事2件こなして、さらりと終わり。帰り道、昼飯どうしようかと思いつつ運転してたが、結局コンビニにもスーパーにも寄らずに帰宅。スパゲッティかラーメンでも食っとくかと思ったが、母親が台所使っていたんで、なんかそこにあったマグロの巻き寿司何個かと小さいあんドーナツ一個食って腹ごなしした。あと、りんごね。いつもはりんごは食わないんだが、なんか今年に限ってりんご食う気持ちになってる。親戚から2箱ほどいつも送られてくるのだが、この時期、長野なんでな、親戚筋が、それでも母親ばかりがいつもりんごを噛じり、おれはいつも食べないままが例年。でも今年は食ってる。食いたい。

ヒゲ剃ったり、ごろんとしたり、トイレ行ったり、やがて、もう出るかとなり、支度して、出かける。この日は暑く、でも帰りの遅さを考えると冬支度にするしかない。腰辺りに来るようにシャツにカイロ貼り付けたり、リュックに一応と、マフラー入れといたり。厚手の緑のカーディガンにジャケット。これだと暑かった。でも仕方がない。出先が都会で遠く、そこいら行くような格好ってわけにはいかない。

クルマで所沢まで。映画の終わりが遅いので、終電的なことを考えていつもの地元の駅ではなく所沢にした。所沢はおれには馴染みで車で行くのはひさしぶりだが、割とこういう場合にも使ったりもしている。所沢駅直結のグランエミオの駐車場に駐める。天気もいいし、もう夏ではないので、陽射しの心配もなく、屋上にした。

所沢から新宿へ。着いたのが何時ぐらいだ?4時ぐらい?ちなみに自宅から所沢まで車で1時間。渋滞もあったからこの日はもっと掛かったか。

所沢までの道中はツイッター・スペースで俳優4人がパレスチナで起きていることについて、自分はどうすべきか、身の回りの人にどうアプローチしたらいいかなどを話し合うそれを聴きながらだった。自分の言葉で話しているそれで、よかった。

新宿では特にすることもなく、予定もなく、とりあえず紀伊國屋書店へ。目当ての本もなく、かるくぶらぶら。けど、すぐにどっか座ろう、早いけどメシにしようとかって考えて、でも何食ったらいいかわからない。迷う。「てんや」でいいかといつもの場所へ行ったら、「てんや」がラーメン屋に変わってた。決めたのがだめだともうだめだ。迷う。でももう中央通り付近からよそまで歩きたくない。信州屋で天玉そば。でもここ、あんま美味くないんだよな。いまどきキャッシュレスじゃないし。つゆがただしょっぱいし。昔なら西口の、ションベン横丁の前の方の歩道にあった立ち食いがおれの定番だったが、あそこもなくなってひさしい。

メシ食ったら、新宿で時間潰すのもなあと思い、一気に東中野でいいやと中央線。着くと駅の周りを一回り。ちゃんこの店北の富士は昔々の職場が高田馬場で、そこから梶が谷まで車でデータを運ぶことがあったんだが、運転はおれじゃない、おれは助手席、そのときにいつも看板見かけてた。入ったことはない。それでまだ2時間半ぐらいは映画までは時間があったんで、ドトールへ行った。この前にポレポレ東中野へ来た時もドトールだった。東中野ならばチェーンでない昔ながらの喫茶店が今も幾つもあったりするが、そういうとこへは入れない。なんか恥ずかしくて。匿名性が保てないというか。おれの自意識過剰で。そういう人はよくいると思う。チェーン店は気軽だ。大勢の客のひとりとして紛れる。ドトールの店内は暑かった。上に着てるものは脱いでしまい、ついでにシャツの袖も捲くった。シャツの袖はすぐに捲くってしまう。長袖がいたたまれない。

とりとめなく、音楽ちょっと聞いたり、ツイッターしたり、ほんの数ページだけKindleで「憂国の文学者たちに」(吉本隆明)の「七十年のアメリカまでーさまよう不可視の「ビアフラ共和国」ー」とか「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(大江健三郎)を読んだりしてた。吉本隆明の方は意外にもカート・ヴォネガット・ジュニアについて触れており、へー、そんなことあったんだとちょっとびっくり。ヴォネガットがビアフラ共和国について書いたものがあるが、それを引用しつつで。世界情勢に関する論考だったが、文章がひどくわかりやすく、情勢分析もある意味普通で、それも意外だった。おれが読んだことのある吉本隆明ってなんだったかなあ?昔々、全集で読んでたことがあったが、読んでいたのはもっぱらわかりやすいエッセイ、コラムの類だったな。テレビの話とかしてんの。大橋巨泉がどうとか。他にも花田清輝のことディスってるやつとか。それなら、まあ、読めるよね。あとは「擬制の終焉」と「マチウ書試論」か。こればかりはさすがに押さえた。「共同幻想論」は文庫化された時に買ったけど、ちんぷんかんぷんで冒頭しか読んでないな。そもそもなんの話してんのかがわからなかった。男女ペアから話は始まる、みたいなことなんだよね。そこがそもそも掴めなかった。昔は。国家の話で男女ペアの話とか始まっても、文章が難解だし、何が始まったのかがそもそもわかんなかった。80年代前半は割り方吉本隆明ブームで、「ハイ・イメージ論」とかさ、そういうのもあったし、「ハイ・イメージ論」はチラチラは読んでた、コム・デ・ギャルソン事件とかもあったからね、割に親しめる機会もまだあった。まさか娘がベストセラー作家になるなんてねえ。おれは吉本ばななとは学年1個違いで、ほぼ同世代だ。「キッチン」だけは読んだかな。あんましピンと来なかった。大島弓子の影響あるなあとか思ったくらい。

そんなこんなでドトールで時間は経ち、7時半より前には店を出た。遠くから来てんのもあるし、おれの性格もあるんで、早め早めに着いちゃうんだよね。どうしても。その第一弾がドトールで、それでもまだ早い時間にポレポレ東中野までは行き、天気いいし、あったかいしで、外のベンチで座って待ってた。ここは外のベンチがいい気分だよね。ポレポレ東中野、何年か前に「親密さ」(監督:濱口竜介)の時にも外のベンチに座ってたなあ。憶えてる。それと何ヶ月か前の「ディア・ピョンヤン」「愛しのソナ」(監督:ヤン・ヨンヒ)の時はドトールには行ったけど、ここのベンチでは座った記憶がない。ベンチはともかく、ポレポレ東中野といえば、いまとは名前が違った昔、なにわ天閣特集見に来た記憶が毎度甦る。なにわ天閣、ヤングは知るまい。

『王国(あるいはその家について)』(なぜか長らくカッコ内が憶えられなくて、王国、ええとそれで、ってなってた。今回ちゃんと憶えた)を見るのは今回で2度目。前回はしかし、ストリーミングでだったので、ちゃんと劇場で、スクリーンで見るのは初だ。もう1回ちゃんと見たかったから、今回、とてもよい機会だった。

でもって、中身ぜんぜん忘れてたな。前見た時もすっごくよかったんだけど、ほぼなんも憶えてなかった。こういうこと、よくある。映画見て、よかったって感覚と記憶は確かにあるのに、中身が思い出せない。逆に大しておもしろくはなかったけど、中身は割りと憶えてるとかね。たしかによかったのに、内容に関しちゃ漠然としちゃうの、なんでなんだろな。リクツをつけたいところ。いまはおいとく。宿題。宿題には手がつかないのが通例だが。

冒頭、杉の木(?)かなんかが何本か立ってて仰角でのショット。ああこんなはじまりだったんだって、思い出したわけじゃない、確認してた。オープニングは押さえておきたいみたいのあるじゃん。映画はさ。それに中身まるきり忘れていたんで、さあはじまるとなり、どんなだったっけなあって意識しての初の画面だから、余計意識してたんで、オープニングに対して。

映画の中で唯一「ディズニーランド」という単語だけが実在の固有名詞、商品名として出て来た(「茨城」という地名はべつとして)。ほかは「モール」という言い方であったりして、「イオン」とかそういうんじゃなかったな。映画や小説で、アメリカだとやたら実名が出て来るけど、日本だと、そういうのは少ない。アメリカのほうが訴訟とかでややこしそうなのに、そこはなぜか突っ切るんだよな。アメリカでは。カート・ヴォネガットは許可取りとかしてるみたいなこと書いてたな。相手先に。でも。アメリカ映画は全般的に、どこかの記事で、特に許可取りもなく実名出しちゃうみたいの読んだことある。邦画でも新海誠とかは実名出す方だけど、許可取りはちゃんとしてそう。そういえば小津安二郎の映画でサッポロビールの瓶がそれとわかるように映ることしばしばだけど、あれはスポンサーとしてなのか、小津安二郎がサッポロビールの社長と懇意で、そんなことんなってんのか、見てると気になる。どっかの本に答えは書いてあんのかな。それで「モール」の方なんだけど、セリフで「モール」って出る度に引っ掛かってた。固有名ってことじゃなくて、「ショッピングモール」の方がなんかしっくり来るなあ、おれには、って。「モール」、もやもや、みたいな。こういう風に単語一個に引っ掛かることってある。こういうのは理由云々よりも生理なんだよな。理屈はあるとしても後づけだ。そしてそういう違和感が、ただいやな場合もあるが(「が」が続いてる)、『王国』に関しては単語に対する違和感も、映画の中で移り変わる顔とセリフを見て聴いていることも、映画始まって後から入って来た人のカバンの開け閉ての音が聞こえたりも不快ではなく、寧ろおもしろく感じ、見ながら席でもぞもぞして身体を左右に向きを変えたりすることも、いまこうしてブログに文章記していることも、ポレポレ東中野の道路際のベンチでとりとめなく待ち過ごしたことも、すべてが『王国』を見ること、見たことに繋がっている。すべての記憶と絡み、結びつけたくなるし、映画に返っていく。たまにそういう映画はある。『王国(あるいはその家について)』がそう。それ。

『王国(あるいはその家について)』を見に行く前の日に配信で

『ふぞろいの林檎たちⅤ/男たちの旅路〈オートバイ〉山田太一未発表シナリオ集』刊行記念トークイベント 山田太一 幻の脚本 奇跡の発見

というのを見たのと(実際には車の中で運転しながら聞いた)、ここしばらくで「ふぞろいの林檎たち」を5話ぐらいまで見ていたこともあって、頭の中に「いとしのエリー」の”エェリィー!!”が映画見ながら時々鳴ってたし、「ふぞろいの林檎たち」を思い浮かべていたりもした。この映画となんか関係あんのかっていうとべつにないし、でもなんつうかエモーショナルなもんを今見ているものと合体さしてより盛り上げたくなる時があって、これはそれだった。エモ×エモ=∞ みたいなね。そういうのと似た感じだと思うんだけど、滅多に見ることのない無声映画をたまに見る場合、なんか好きな音楽掛けながら見てたりすることがある。そうすると画面に映っているもの、動いているもの、役者たちの表情や動作のグルーヴが加速して興奮してくるので、そういうことをしていたりもする。美術館でも、音楽聴きながらはそれはやらないんだけど、頭の中ではなんかしら音楽鳴らしてる事が多い。音楽だけじゃないな、美術館であれば天井から消火栓、そこにあるものすべてが美術品として立ち上がって来るし、世界のこと、過去に遡った自分のこと、その他あらゆることを同時に思い浮かべて興奮している。映画でもたまにそれをやるし、それをやりたくなる、それをやってより興奮するものは限られていて、『王国』はそれだ。

『王国(あるいはその家について)』では役者が何度も何度もおなじセリフを云うし、おなじシーンが繰り返されるわけで、しかも映画自体長い、だと見てくうちにある程度はセリフを憶えることもできてはしまうので、もうこの際、応援上映とかやったらいいのにとか思いついたりしてた。「グロッケンザマッキー!」とか見てるみんなで声出ししたら余計盛り上がってたのしい。踊ってもいいし、走り回ってもいい。喚起された言葉を叫んでもいい。映画をグルーヴィーな体験として体験したい、この気持ちを共有したい。映画でレイヴ。

映画を見ていて、おれは人物の名前が中々憶えられず、それは登場人物の少ない『王国』でもそうで、「野土香」と「穂乃果」の区別がつかず、どっちが母親だったっけとしばらく迷ったりもしていた。こういう混乱はよくあり、名前に限らず、映画内の人間関係が把握できないままに見終わることもままある。『王国』ではシナリオにあるだろうストーリーは見てるだけでは判らず、憶測と予断を重ねていくしかないが、だからそういう意味では「完全」なストーリーというのはおれほどに混乱しがちな人間でなくとも分からない仕組みになっている。しかし、物語を「理解」するって、でもなんだ。というか、混乱したままでも十二分に見ていて受け取っているものがある場合、ストーリーの理解ばかりが優先されなくちゃいけないということはない。つづきもののドラマならば登場人物や前の前の回で起きた事件なんか忘れちゃってはいても、途中から見始めても、たのしむことだってふつうにしている。すべてをわかりたい欲望と、そこに追いつかない理解と記憶。その間で映画を見てる。宙ぶらりんに。見た後に記憶は欠けてしまうわけだしね。どのみち。テーマに関しても『王国(あるいはその家について)』はシナリオはよく出来ていて練られているだろうことが見て取れ、そしてそこにはメタファーが明らかにあり、しかし、メタファーを解釈してしまいたくないという欲望もある。言葉でわかってしまいたくない、体感でわかりたいという欲望もある。見ながらどうしようか迷ってる。

映画の中では何度かロケ撮影、しかし登場人物は不在、あるいは木立の間の陽光が徐々に強くなっていくようなショットがある。ほぼ屋内、それもひどく殺風景な会議室みたいなところだ、それらの合間に時折挟まれる。特に印象的だったのはいまさっき書いた木立の間の陽光と、車の中から撮った正面の車窓風景で、特に後者はなぜか道の途中で車は停まっており、それが動き出し、しばらく走っていく。その通り過ぎる町並みはセリフにある茨城のどこかだと思われるが、うちの地元にも似ている。なんか懐かしい。車は走り出すと前方にシルバーマークをつけた車がいて、まるでその後を追っているかに見える。しかしそんなことはなく、それは無関係な車だと分かる。途中ではぐれる。そして車はなんでもない意味があるとは思えない場所へ入って行って、そこでゆっくりと止まる。シナリオブックは買ったが読んではおらず、シナリオ上はそこで登場人物同士のセリフが車内で交わされているのかも知れない。しかし、なんの説明もないままに挿入される、その車窓風景はただ唐突に出て来て、それも中途半端な場所から中途半端な場所へ、そして室内へ戻る。ふしぎなのは前後もわからず、そこで挿入される必然があるわけでもなく、それでも映画を見ているこちらには強く喚起されるものがあるということだ。興奮は収まらない。『王国』に限らないが、特に人物のいない風景、それも格別に構図の決まったショットとかそんなんじゃなくとも、そこらへんの町のそこらへんのなんにもない場所であっても、それが映画の中に出て来ると強い感興を齎すのはなぜか。(よい)映画はすべてに意味を持たせる。言葉としてのそれではなしに、ただそこにある、映っていること自体に意味が生じる。こちらの意識が映画の中に入り込み、沸き立つものを感じている。

映画を2度3度、人によっては100回、200回と繰り返し見ることはある。おれだって『王国(あるいはその家について)』自体2度目だし。それで云うと『王国』の場合は映画の中で繰り返しが起こる。数えたら面白いぐらいに。見るのが初めてなのに2回3回、4回5回と繰り返し同じ場面、同じセリフを見て、聞くことになる。それは稀有な体験であると同時によくあることでもある。あらためて映画を2回以上見なくても、見た後に頭の中で部分的に思い出すようなことは誰でもしているわけだし。「繰り返し見る」って、じゃあなんだ?という。音楽だったら繰り返し聞くのは寧ろ当たり前だ。中学の頃に同級生がビートルズの「Your Mother Should Know」だけを遊びに行った時にひたすら聞いてたことあったのをしょっちゅう思い出してる(この思い出しも繰り返しだ)。おれだってザ・バンドの2ndだけをひつっこく、ほんとそればっかり聞いてたりしたことはあるし、音楽なら聞くだけじゃなく、鼻歌歌ったり、カラオケで歌ったりしてまで再現に次ぐ再現は普通に行われている。映画内でだから繰り返しが行われる、作品自体が見てるこっちより先に繰り返しをしてくるのが『王国(あるいはその家について)』だ(タイトルもこの文章の中でリフレインとして機能してる)。ひとつの映画の中でおなじシーンが繰り返されるって、そういや思い出した大島渚の『帰って来たヨッパライ』だ。あれがあった。

youtu.be

他にもシーンが繰り返される映画はあると思ったし、最近流行りのタイムループものも、おんなし場面を繰り返すのが寧ろ見どころになってる。案外と同じシーンを繰り返す映画ってのはあるなと、いま書きながら気がついたゎ。『王国』はそれらを更に煮詰めたようなものとも言えるが、しかし、繰り返しがそれでも見ていられる、見ていることが快感になるのはなぜかと考えると、生身の人間がやってるからというのが大きいんだろうなあ。これがアニメであれば、すぐに耐えられなくなりそうではあるし、もしマンガで同じことがやられれば、ページを適当に飛ばして、すっかり飛ばし読みになってしまうだろう。マンガであれば、作者は同じコマのコピーをするかも知れない。わざとそうして効果を狙うというのはあるが、その場合はむしろ読者との共犯関係があってこそ、だ。しかもここまで執拗には出来ない。『王国』のようには。映画という、向こう側で勝手に速度と順番を決められるものであることの有利性が『王国』には働いている。いま速度と書いてしまったが、流行りの倍速視聴で『王国』を見たらどんななんだろな、そういや。倍速視聴自体、おれはしたことがないんで、想像がつかないが。やってみる価値はある。いまはそうだ、見る側の態度と自由について書いている。たぶん。自分でもテーマはわかっちゃいないが。『王国(あるいはその家について)』を1度目はストリーミングで見たが、ストリーミングやBlu-rayであれば倍速視聴もそうだが、それこそは気に入ったシーンをその場で繰り返し見ることも可能だ。聞き損なったセリフを確かめるためにちょっと前に戻って繰り返し見ることもあるだろう。家で見ていると劇場とは違い、途中で止めたりしてしまうこともあるんで、ちびちび見たり、また頭から見たりで、いつまで経ってもエンディングまで辿り着かない場合だってある。カフカの『城』の如くに。映画は見ていれば途中で寝てしまうこともあるし、『王国』であれば、冒頭の調書の場面と最後の独白だけを途中寝てすっ飛ばして見るという体験もありうる。そうであればその人にとっては繰り返しは存在せず、ストーリーとしては不可解ではあっても、何か起きて解決のついたドラマとして存在しうる。映画はじゃあ、どこに存在するんだろう?映画と見てる人間の間にか。ゴダール式の「&」ってやつか。『王国』ではそのストーリーは隠されている。今回、上映後にシナリオブックの発売とサイン会があり、購入もしたが、たぶんそこには一通りのストーリーは書いてあると思われる。しかし『王国』ではその正体は最後までわからない。見えない。知らない場所で知らないことが起こっている。その断片がたまに見えるだけ。話は前進せず、戻ったりする。そしてたまに新しい状況とセリフが見ている我々(いま「我々」って言いたかったから言ってる。「側」でも「人間」で「こっち」でもいろいろ当て嵌まる。いま「我々」と選択した)の前に置かれる。やっとエサが来たみたいだ。腹も減ってる。食する。喉を通ってゆく。映画はこちらの咀嚼も消化も知らぬので勝手にまた同じセリフとシーンを繰り返してる。特異な映画だがしかしストーリーは追っている。意識せずともストーリーというのは人は自分の中に組み立てているか、過去に知るストーリーのどれかに組み込ませてる。今から40年前、20歳の時に生まれて初めてジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』を見た時、思いつき並べてるだけじゃん、めちゃくちゃやってる、わぁーい!うれしーな!みたいに見終わった後になって、舞い上がってた。感動して興奮してた。それであまり日を置かずに2度目をみたわけですよ。そしたら案外にお話があって、あれ?となり、ちょっとがっかりしたんだった。なんだデタラメじゃないんだって。その後3回、4回、5回、6回、たぶんもっと見てるが、、といって数えられるぐらいだけど、何度か何度も『気狂いピエロ』は見てて、すっかり好きな映画ではあるんだけど、2回目のがっかりは克服できた、じゃあそもそもストーリーも何も理解してなかった初見の時になぜあんなに感動したのかって考えてみたの。無意識下ではきっとストーリーを掴んでいたせいだと思ってる。人の感動の領域は狭く、特に物語であれば類型的であることが感動の契機となる。来るぞ来るぞ来るぞと待ち構えて、さあ来た、となり、泣いちゃうのだ。ストーリーなんてありきたりでいいんだって、正にゴダールがつぶやいてる。でもストーリーは必要だ。人の心の乗る器、乗り物、それがあってこそ。とりあえず乗車して見学。道中はデタラメでもいい。けど乗り物には乗っかってる。人の理解は物語にしてようやく把握に至る。物語は薄くても裏でも、ぐっと濃い口でも構わない。けど、ナシってわけにはいかない。物語がない状態でも、そこに見てる側が物語を乗っけてしまう。よい映画は見てる人間に物語を作らせる。見ながら補い続ける。そこにいる俳優に、画面にはない動作とセリフと過去の事情と気持ちを忖度する。物語が膨らみ続ける。画面にはない情報が足されていく。見ている者自体の物語、人生と生活と思うことすべて、全部がその映画と併走しだす。映画を見終わってもその併走は続く。一年経ち、ある日急に『王国(あるいはその家について)』が身内に甦り、得手勝手に走り出すかも知れない。もう併走でさえない。独走だ。そこから更に2年経って再び『王国』を見るかも知れない。独走して、息切れしてたのが、そこで再び息が整う。

『王国(あるいはその家について)』の様な映画の場合、どうしても手法の話に終始しがちで、それはこの文章がまったくそうなっちゃってる、ストーリーから差し出されているテーマが置き去りになりがちにはなる。そこをいま、反省している。もっともっとお話とテーマの話をすべきだ。子供が一人死んでいる。そのことをきちんと気にしなきゃいけない。でもおれはいま、手法とそこから触発されたものについては言語化出来ているが、『王国』の中の人間関係、夫婦2人とその妻の友達、そして夫婦の子供一人につき、言葉が出て来ない。うっすらと感じているものはあるが、それを言葉にして粒立てたくはないし、それ以前に言葉にならない。なんとなくそういうことはあるよねとだけで理解している。人の気持ちの機微、そのどうにもならなさ加減と身勝手さ、行動としては異常ではあっても、そこに格別な名前はなく、タガが外れているのに、そこに至る流れだけはある。見ていればわかるのに、説明は出来ない。説明では事足りない。説明してしまうと、その結果が余りに凡庸で、きっとそれがいやなのだろう。人の心は掴み難いが、結果的にはいつでも凡庸だ。つまらない。簡単に言葉に置き換えられるものでしかない。この『王国』というフィクションの中で死ぬ子供は、ともすれば脚本家が案じた仕掛けにしかならない。となると犯人は脚本家ということになってしまうが、そうではなく、ここに出て来た3人の大人の不如意の結果なんだ。その陥穽にその子は落とされた。ひどい話だ。大人はいつでも無力だ、ではなく、この世界で子供を殺してしまうのは何十億といる大人たちの責任だ。いつでもそう。大人は責を果たさない。

『王国(あるいはその家について)』では画面の光量が一定しない。場面ごとに質感が違う。同じ屋内ではあっても、その度に照明の質が変わる。第一どアップも多く、その場合は肌合いがしっかりと見えるそれで暗いところは微塵もない。出てる人はごく単純に自分の肌、毛穴までしっかり見られるのは気恥ずかしかったりはするのだろうと見ながら勝手に心配してた。でもなんだろう、実際に他人の顔をこうもまじまじと見つめ続けることなどは実生活では滅多にない。自分の子供の顔を仔細に観察することはあったり、ベッドで相手の顔を間近に見つめたりはあるが、単に他人の顔をじっと見たりはしない。そんな機会はまずない。あ。それでいま思い出した。YouTubeでは本人の顔のどアップって、随分とあるのだ。そういや。YouTube以前には映画のどアップぐらいしか、そんなのはなく、しかもYouTubeの場合、ビデオ撮りで、照明をしっかりと充て、カメラに向かい喋ったり食べていたりと、TVなどで段取りやメイクをしっかりと誂えたものに比べ、ずっと本人に近い、例え演出はあっても、ごく、日常に近い。

2時間半ぐらいの映画だが、10分にも、1時間半にも、5時間にも『王国』はなりうる。ストーリーの部分だけで云えば、最初の調書の確認場面だけで終わったとしても、そういう短編として充分に成り立っている。同じ場面、同じセリフの繰り返しが続き、ではどこで区切るのか。どこで結とするのかには法則はない。決まりはない。これは順撮り(?)なのか、それともある程度の長さ、回数を重ねてから編集で前後を並べ替えているのかはわからない。繰り返しはあっても、徐々に話が進んでもいて、前になかったことが起きる、それで少し前へ話が進む、というか、見ている人間に情報が渡されたので、見てる側で物語が補完される。牛歩ではあっても、それでもストーリーは進んでいる。ただの停滞、繰り返しのみじゃない。推進力がそれでもフィクションには必要だ。そこに映る顔や光、声に魅入られてはいるのに、それだけでは満足はせず、物語を追っている。人は物語に置き換えないと状況を理解できない。物語を作り出し過ぎるという人間の持つ悪癖もあるが。

はじめの調書場面、亜希(澁谷麻美)の喉元までしっかりと嵌められたブラウスのボタンを見て、「すいか」の小林聡美を思い出していた。そこ以外で亜希、ではなく澁谷麻美は稽古中なので、スウェットなどを着ており(再びちゃんと見て、着ているものをいちいち確認したいが)、冒頭のブラウスだけがとてもきっちりした硬い様子で対比的でもあった。そういう役ではない部分で云えば、澁谷麻美は最後には目が赤く充血しており、そこまでにはその印象がなかったので、赤い目が記憶に残っている。そういえば我々は(「我々」といま、言いたい。理由はない)『王国』で役を見ているのか、役者を見ているのか。いや、どちらを見ているのかと敢えて気になるのはこの映画の作りがそこを意識させるからで、映画を見ていて、役と役者、両方を見ているのは割りとふつうだ。

途中から走り出して、最後、倉庫だったか、ともかくも殺風景でわざわざ行くような場所ではない所で止まった車の様に、この文章もなにかが起きつつも、傍目にはなんとなく止まるようにしたい。

「荒城の月」が何度も歌われるが、『王国(あるいはその家について)』の中では、「荒城の月」で真っ先にいつも浮かぶのは壷井栄「二十四の瞳」で、だが、木下惠介の映画版の中では「荒城の月」がなく、そこがすごく不満だった。「二十四の瞳」は最後に「荒城の月」が歌われることで、無常が胸に迫るのに。『王国』がどこまで「荒城の月」の歌詞内容を意図しているのかはわからない。あ。かつての「王国」ということか。過ぎ去りし繁栄の日々への想い。そういうことか。見てる時にはわかってなかった。というかそもそもタイトルからして『王国』に関わらず見ている最中はいまいち「王国」のことが理解できてなかったんだ。でもそうでもないか。見ながら「王国」のイメージとしてはアニメの「火垂るの墓」で水辺に兄貴が妹と2人きりの世界を作り、閉じ籠もるのを連想してたし。というか、おれが「王国」として真っ先にいつも思い浮かぶのは「火垂るの墓」のそれなんだ。おれはひどく退嬰的なので、妹と2人きりの世界に住まうことを考えることが多く、それは「王国」なんてものじゃなく、おれも妹も小学生くらいの頃、夕方にこたつに入って「巨人の星」かなんかを妹と2人で見ている時間のことで、いつでもそこに戻りたいと思っている。それが「火垂るの墓」を見る度、ああこうして「世間」をのかして2人だけの平和な世界にいるのっていいな、2人きりの「王国」にと、そこで初めて「王国」という言葉が出て来る。そう、だから、おれは「王国」を知っている。既に知ってる言葉だった。しかしもちろん永遠なんてもんはなく、というか、永遠どころか、ほんの刹那で、あっという間に終わってしまい、でもだからこそ、そこに永遠を見出してもいる。なんてことはない、モラトリアムだ。望むべきモラトリアム。ひとときの、同時に「永遠」の「王国」=「モラトリアム」。すぐにそこは過ぎ、雑音まみれの、忙(せわ)しない、人の目を気にする時間が始まる。無常、なんてカッコいい言葉も本来は似合わない、ちんけな現実逃避の終了タイム。

亜希(澁谷麻美)は最初の調書の確認の場面の時には服もきっちりしているが、表情も硬く、最後の特別な微笑みの他は笑顔もない。それがリハーサルに入り、直人(足立智充)、野土香(笠島智)の夫婦との歓談の場面となると大きく笑い顔になるし、そこでは歯が見える。あ、歯が見えた、と強く印象がある。でもそこで歯が見えるほどの笑顔はあくまでもリハーサルの最中のことでもある。いま、役名と俳優名を同時表記したが、『王国(あるいはその家について)』に於いて、今見ているのが役者なのか、役なのか、わからなくなる。今見ているのはどっちの笑顔なんだ?亜希か、澁谷麻美か。リハーサル風景ではあってもカメラは意図を持ち、そこにあり、オフの場面は更にない。芝居に関しては滞らず続けられている。芝居しか映ってはいない。芝居でないものとしてはスタッフの指示が聞こえる、それだけだ。役者は芝居をしている。そこだけしか映らない。一方、撮影と編集をしている側は「映画」を作っている。動画として撮影、編集され、最終的にまとめられ、公開されると、その画面に映っているものに関して、衣装やセット内で行われている芝居も、殺風景な会議室で行われている本読みも、見ている側にとって差異はない。画面にある限りすべてがフィクション、見せるための意図した表現だ。物語をそこから汲み取り、見ながら組み立ててしまうので、ジャージ着て本読みをしていても、見てる方からしたら、物語は進行している。物語と物語以外、じゃない。画面にあるものはすべてが等価だ。揺らめく光も水筒も等しく物語の形成に寄与してしまう。意味があるようになる。画面上に無意味なものは存在しなくなる。すべてが読み取れる。過剰にそこに存在してる。その過剰性が気持ちいいんだよな。見てるとさ。見ていてノッて来ると、事物も人物もそこにある感情もセリフも、それらを映し出すカメラも、その「映画」を作っている者たちも、すべてがこちらに語りかけ始める。その言葉を拾うのに忙しくなる。わあわあしてるうちに映画は終了する。なんか全部聞き取れなかったなあ、聞き逃したもん、全部こっちに欲しいわと、またその映画を見るでしょう。

上映後、草野なつか監督、直人役の足立智充さん、亜希役の澁谷麻美さんの3人によるトークがあり、更にそのあとで、シナリオブックにサインをくれるというので列に並んだ。映画見ながらいちばん(?)気になってた澁谷麻美さんのそばにあった水筒について「無印良品のですか?」とご本人に尋ね、そうですと答えを得られたので満足した。