國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

人間の証明

ようやく最後まで観た。
遠くにばあさんが一人いて、まさかと思ったらやっぱり北林谷栄だった。
(しかしあの人は一体いつからあのパターンをやってるんだろうか。どの作品が決定的になったのだろうか。)
ニューヨーク・ロケもあり、ハーレムを撮る女性写真家、つまりは吉田ルイ子(定番)と思しき人物が出て来る、
但し本人ではなく、カメオ出演ではないが、今回のTVリメイク、出来れば同じ役どころにグラフィック・アーティストHITOEちゃんを持ってきて欲しい。(以前テレビ東京であったリメイクは結構よい出来だったらしいのでそいつは観たくなった。)
司会といえばもちろんE.H.エリックだ!
今度のTV版、しかしどういう設定でやるのかなあ。
パンパン上がりの過去を隠して云々だなんて「ゼロの焦点」みたいなのなんて、今は無理。誰もいない海。
ところで映画でも小説でも「現在」の設定を過去の時代にする、っていうのは時代物でもないと中々ないような気がする。
やはり「現在」は「現在」じゃないと作る方も受ける方も納得し難いのが人情。
人間の証明」だったなら「1977年」が「現在」であって、公開当時はもちろんそのまま1977年であって、
こうして今観る時には映画の中の現在である1977年を、そして「人間の証明」が話題になり、
公開された当時を思いながら観ている。どうなんだろ、例えばこの「人間の証明」をリメイクするとして、
「現在」を「1977年」にして、「2004年」という実際の「現在」を忘れたフリして製作したら、どんな感じがするんだろうか?
もちろん商売上はそんなことしたら確実にコケるのでやんないだろうな。あ。でも「サマー・オブ・サム」でも
「ブギー・ナイツ」でも1977年とかが舞台で話はその時代に終始する。そういうのもある。が、その手のは又別に
その年が舞台であることを殊更に強調し、ノスタルジーなりに訴えているし、更にその時点からの過去から話が始まり、
その時点、1977年で終わる、ってもんでもないか。
なんかよくわかんなくなって来た。頭がまわらん。
その「現在」が受け手にとっては実際「過去」だっていうと、広瀬正の小説「マイナス・ゼロ」の事を考える。
「マイナス・ゼロ」は舞台が昭和38年(1963年)つまりはおれの生まれた年なのだ。
もちろん小説自体はそのときに書かれたので「昭和38年」はまんま「現在」であって、
後々に「昭和38年」を舞台にした作品ではない。ただ、この作品はタイムトラベルものなので、
そこから過去に遡るのだ。戦前・戦中へと。そして結局「現在」である昭和38年へと戻っては来るわけだが、
それを読んでいるおれにとってはその「昭和38年」自体が過去、それもおれの生まれた年だったりして、
小説の中でタイムトラベルした先の20年からそれ以上前なんかよりも小説の中の「現在」の方がよほど懐かしいのだ!
なんかしみじみしちゃったんだよな。読んだ時。小説そのものへの感動とは別に。「昭和38年」という時代に。