國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

『王国(あるいはその家について)』

12月9日土曜日。この日は昼過ぎまで仕事。天気は上々。

仕事はまあ、土曜は出勤後も事務所に人もおらず、事務所出た後は外(そと)仕事2件こなして、さらりと終わり。帰り道、昼飯どうしようかと思いつつ運転してたが、結局コンビニにもスーパーにも寄らずに帰宅。スパゲッティかラーメンでも食っとくかと思ったが、母親が台所使っていたんで、なんかそこにあったマグロの巻き寿司何個かと小さいあんドーナツ一個食って腹ごなしした。あと、りんごね。いつもはりんごは食わないんだが、なんか今年に限ってりんご食う気持ちになってる。親戚から2箱ほどいつも送られてくるのだが、この時期、長野なんでな、親戚筋が、それでも母親ばかりがいつもりんごを噛じり、おれはいつも食べないままが例年。でも今年は食ってる。食いたい。

ヒゲ剃ったり、ごろんとしたり、トイレ行ったり、やがて、もう出るかとなり、支度して、出かける。この日は暑く、でも帰りの遅さを考えると冬支度にするしかない。腰辺りに来るようにシャツにカイロ貼り付けたり、リュックに一応と、マフラー入れといたり。厚手の緑のカーディガンにジャケット。これだと暑かった。でも仕方がない。出先が都会で遠く、そこいら行くような格好ってわけにはいかない。

クルマで所沢まで。映画の終わりが遅いので、終電的なことを考えていつもの地元の駅ではなく所沢にした。所沢はおれには馴染みで車で行くのはひさしぶりだが、割とこういう場合にも使ったりもしている。所沢駅直結のグランエミオの駐車場に駐める。天気もいいし、もう夏ではないので、陽射しの心配もなく、屋上にした。

所沢から新宿へ。着いたのが何時ぐらいだ?4時ぐらい?ちなみに自宅から所沢まで車で1時間。渋滞もあったからこの日はもっと掛かったか。

所沢までの道中はツイッター・スペースで俳優4人がパレスチナで起きていることについて、自分はどうすべきか、身の回りの人にどうアプローチしたらいいかなどを話し合うそれを聴きながらだった。自分の言葉で話しているそれで、よかった。

新宿では特にすることもなく、予定もなく、とりあえず紀伊國屋書店へ。目当ての本もなく、かるくぶらぶら。けど、すぐにどっか座ろう、早いけどメシにしようとかって考えて、でも何食ったらいいかわからない。迷う。「てんや」でいいかといつもの場所へ行ったら、「てんや」がラーメン屋に変わってた。決めたのがだめだともうだめだ。迷う。でももう中央通り付近からよそまで歩きたくない。信州屋で天玉そば。でもここ、あんま美味くないんだよな。いまどきキャッシュレスじゃないし。つゆがただしょっぱいし。昔なら西口の、ションベン横丁の前の方の歩道にあった立ち食いがおれの定番だったが、あそこもなくなってひさしい。

メシ食ったら、新宿で時間潰すのもなあと思い、一気に東中野でいいやと中央線。着くと駅の周りを一回り。ちゃんこの店北の富士は昔々の職場が高田馬場で、そこから梶が谷まで車でデータを運ぶことがあったんだが、運転はおれじゃない、おれは助手席、そのときにいつも看板見かけてた。入ったことはない。それでまだ2時間半ぐらいは映画までは時間があったんで、ドトールへ行った。この前にポレポレ東中野へ来た時もドトールだった。東中野ならばチェーンでない昔ながらの喫茶店が今も幾つもあったりするが、そういうとこへは入れない。なんか恥ずかしくて。匿名性が保てないというか。おれの自意識過剰で。そういう人はよくいると思う。チェーン店は気軽だ。大勢の客のひとりとして紛れる。ドトールの店内は暑かった。上に着てるものは脱いでしまい、ついでにシャツの袖も捲くった。シャツの袖はすぐに捲くってしまう。長袖がいたたまれない。

とりとめなく、音楽ちょっと聞いたり、ツイッターしたり、ほんの数ページだけKindleで「憂国の文学者たちに」(吉本隆明)の「七十年のアメリカまでーさまよう不可視の「ビアフラ共和国」ー」とか「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(大江健三郎)を読んだりしてた。吉本隆明の方は意外にもカート・ヴォネガット・ジュニアについて触れており、へー、そんなことあったんだとちょっとびっくり。ヴォネガットがビアフラ共和国について書いたものがあるが、それを引用しつつで。世界情勢に関する論考だったが、文章がひどくわかりやすく、情勢分析もある意味普通で、それも意外だった。おれが読んだことのある吉本隆明ってなんだったかなあ?昔々、全集で読んでたことがあったが、読んでいたのはもっぱらわかりやすいエッセイ、コラムの類だったな。テレビの話とかしてんの。大橋巨泉がどうとか。他にも花田清輝のことディスってるやつとか。それなら、まあ、読めるよね。あとは「擬制の終焉」と「マチウ書試論」か。こればかりはさすがに押さえた。「共同幻想論」は文庫化された時に買ったけど、ちんぷんかんぷんで冒頭しか読んでないな。そもそもなんの話してんのかがわからなかった。男女ペアから話は始まる、みたいなことなんだよね。そこがそもそも掴めなかった。昔は。国家の話で男女ペアの話とか始まっても、文章が難解だし、何が始まったのかがそもそもわかんなかった。80年代前半は割り方吉本隆明ブームで、「ハイ・イメージ論」とかさ、そういうのもあったし、「ハイ・イメージ論」はチラチラは読んでた、コム・デ・ギャルソン事件とかもあったからね、割に親しめる機会もまだあった。まさか娘がベストセラー作家になるなんてねえ。おれは吉本ばななとは学年1個違いで、ほぼ同世代だ。「キッチン」だけは読んだかな。あんましピンと来なかった。大島弓子の影響あるなあとか思ったくらい。

そんなこんなでドトールで時間は経ち、7時半より前には店を出た。遠くから来てんのもあるし、おれの性格もあるんで、早め早めに着いちゃうんだよね。どうしても。その第一弾がドトールで、それでもまだ早い時間にポレポレ東中野までは行き、天気いいし、あったかいしで、外のベンチで座って待ってた。ここは外のベンチがいい気分だよね。ポレポレ東中野、何年か前に「親密さ」(監督:濱口竜介)の時にも外のベンチに座ってたなあ。憶えてる。それと何ヶ月か前の「ディア・ピョンヤン」「愛しのソナ」(監督:ヤン・ヨンヒ)の時はドトールには行ったけど、ここのベンチでは座った記憶がない。ベンチはともかく、ポレポレ東中野といえば、いまとは名前が違った昔、なにわ天閣特集見に来た記憶が毎度甦る。なにわ天閣、ヤングは知るまい。

『王国(あるいはその家について)』(なぜか長らくカッコ内が憶えられなくて、王国、ええとそれで、ってなってた。今回ちゃんと憶えた)を見るのは今回で2度目。前回はしかし、ストリーミングでだったので、ちゃんと劇場で、スクリーンで見るのは初だ。もう1回ちゃんと見たかったから、今回、とてもよい機会だった。

でもって、中身ぜんぜん忘れてたな。前見た時もすっごくよかったんだけど、ほぼなんも憶えてなかった。こういうこと、よくある。映画見て、よかったって感覚と記憶は確かにあるのに、中身が思い出せない。逆に大しておもしろくはなかったけど、中身は割りと憶えてるとかね。たしかによかったのに、内容に関しちゃ漠然としちゃうの、なんでなんだろな。リクツをつけたいところ。いまはおいとく。宿題。宿題には手がつかないのが通例だが。

冒頭、杉の木(?)かなんかが何本か立ってて仰角でのショット。ああこんなはじまりだったんだって、思い出したわけじゃない、確認してた。オープニングは押さえておきたいみたいのあるじゃん。映画はさ。それに中身まるきり忘れていたんで、さあはじまるとなり、どんなだったっけなあって意識しての初の画面だから、余計意識してたんで、オープニングに対して。

映画の中で唯一「ディズニーランド」という単語だけが実在の固有名詞、商品名として出て来た(「茨城」という地名はべつとして)。ほかは「モール」という言い方であったりして、「イオン」とかそういうんじゃなかったな。映画や小説で、アメリカだとやたら実名が出て来るけど、日本だと、そういうのは少ない。アメリカのほうが訴訟とかでややこしそうなのに、そこはなぜか突っ切るんだよな。アメリカでは。カート・ヴォネガットは許可取りとかしてるみたいなこと書いてたな。相手先に。でも。アメリカ映画は全般的に、どこかの記事で、特に許可取りもなく実名出しちゃうみたいの読んだことある。邦画でも新海誠とかは実名出す方だけど、許可取りはちゃんとしてそう。そういえば小津安二郎の映画でサッポロビールの瓶がそれとわかるように映ることしばしばだけど、あれはスポンサーとしてなのか、小津安二郎がサッポロビールの社長と懇意で、そんなことんなってんのか、見てると気になる。どっかの本に答えは書いてあんのかな。それで「モール」の方なんだけど、セリフで「モール」って出る度に引っ掛かってた。固有名ってことじゃなくて、「ショッピングモール」の方がなんかしっくり来るなあ、おれには、って。「モール」、もやもや、みたいな。こういう風に単語一個に引っ掛かることってある。こういうのは理由云々よりも生理なんだよな。理屈はあるとしても後づけだ。そしてそういう違和感が、ただいやな場合もあるが(「が」が続いてる)、『王国』に関しては単語に対する違和感も、映画の中で移り変わる顔とセリフを見て聴いていることも、映画始まって後から入って来た人のカバンの開け閉ての音が聞こえたりも不快ではなく、寧ろおもしろく感じ、見ながら席でもぞもぞして身体を左右に向きを変えたりすることも、いまこうしてブログに文章記していることも、ポレポレ東中野の道路際のベンチでとりとめなく待ち過ごしたことも、すべてが『王国』を見ること、見たことに繋がっている。すべての記憶と絡み、結びつけたくなるし、映画に返っていく。たまにそういう映画はある。『王国(あるいはその家について)』がそう。それ。

『王国(あるいはその家について)』を見に行く前の日に配信で

『ふぞろいの林檎たちⅤ/男たちの旅路〈オートバイ〉山田太一未発表シナリオ集』刊行記念トークイベント 山田太一 幻の脚本 奇跡の発見

というのを見たのと(実際には車の中で運転しながら聞いた)、ここしばらくで「ふぞろいの林檎たち」を5話ぐらいまで見ていたこともあって、頭の中に「いとしのエリー」の”エェリィー!!”が映画見ながら時々鳴ってたし、「ふぞろいの林檎たち」を思い浮かべていたりもした。この映画となんか関係あんのかっていうとべつにないし、でもなんつうかエモーショナルなもんを今見ているものと合体さしてより盛り上げたくなる時があって、これはそれだった。エモ×エモ=∞ みたいなね。そういうのと似た感じだと思うんだけど、滅多に見ることのない無声映画をたまに見る場合、なんか好きな音楽掛けながら見てたりすることがある。そうすると画面に映っているもの、動いているもの、役者たちの表情や動作のグルーヴが加速して興奮してくるので、そういうことをしていたりもする。美術館でも、音楽聴きながらはそれはやらないんだけど、頭の中ではなんかしら音楽鳴らしてる事が多い。音楽だけじゃないな、美術館であれば天井から消火栓、そこにあるものすべてが美術品として立ち上がって来るし、世界のこと、過去に遡った自分のこと、その他あらゆることを同時に思い浮かべて興奮している。映画でもたまにそれをやるし、それをやりたくなる、それをやってより興奮するものは限られていて、『王国』はそれだ。

『王国(あるいはその家について)』では役者が何度も何度もおなじセリフを云うし、おなじシーンが繰り返されるわけで、しかも映画自体長い、だと見てくうちにある程度はセリフを憶えることもできてはしまうので、もうこの際、応援上映とかやったらいいのにとか思いついたりしてた。「グロッケンザマッキー!」とか見てるみんなで声出ししたら余計盛り上がってたのしい。踊ってもいいし、走り回ってもいい。喚起された言葉を叫んでもいい。映画をグルーヴィーな体験として体験したい、この気持ちを共有したい。映画でレイヴ。

映画を見ていて、おれは人物の名前が中々憶えられず、それは登場人物の少ない『王国』でもそうで、「野土香」と「穂乃果」の区別がつかず、どっちが母親だったっけとしばらく迷ったりもしていた。こういう混乱はよくあり、名前に限らず、映画内の人間関係が把握できないままに見終わることもままある。『王国』ではシナリオにあるだろうストーリーは見てるだけでは判らず、憶測と予断を重ねていくしかないが、だからそういう意味では「完全」なストーリーというのはおれほどに混乱しがちな人間でなくとも分からない仕組みになっている。しかし、物語を「理解」するって、でもなんだ。というか、混乱したままでも十二分に見ていて受け取っているものがある場合、ストーリーの理解ばかりが優先されなくちゃいけないということはない。つづきもののドラマならば登場人物や前の前の回で起きた事件なんか忘れちゃってはいても、途中から見始めても、たのしむことだってふつうにしている。すべてをわかりたい欲望と、そこに追いつかない理解と記憶。その間で映画を見てる。宙ぶらりんに。見た後に記憶は欠けてしまうわけだしね。どのみち。テーマに関しても『王国(あるいはその家について)』はシナリオはよく出来ていて練られているだろうことが見て取れ、そしてそこにはメタファーが明らかにあり、しかし、メタファーを解釈してしまいたくないという欲望もある。言葉でわかってしまいたくない、体感でわかりたいという欲望もある。見ながらどうしようか迷ってる。

映画の中では何度かロケ撮影、しかし登場人物は不在、あるいは木立の間の陽光が徐々に強くなっていくようなショットがある。ほぼ屋内、それもひどく殺風景な会議室みたいなところだ、それらの合間に時折挟まれる。特に印象的だったのはいまさっき書いた木立の間の陽光と、車の中から撮った正面の車窓風景で、特に後者はなぜか道の途中で車は停まっており、それが動き出し、しばらく走っていく。その通り過ぎる町並みはセリフにある茨城のどこかだと思われるが、うちの地元にも似ている。なんか懐かしい。車は走り出すと前方にシルバーマークをつけた車がいて、まるでその後を追っているかに見える。しかしそんなことはなく、それは無関係な車だと分かる。途中ではぐれる。そして車はなんでもない意味があるとは思えない場所へ入って行って、そこでゆっくりと止まる。シナリオブックは買ったが読んではおらず、シナリオ上はそこで登場人物同士のセリフが車内で交わされているのかも知れない。しかし、なんの説明もないままに挿入される、その車窓風景はただ唐突に出て来て、それも中途半端な場所から中途半端な場所へ、そして室内へ戻る。ふしぎなのは前後もわからず、そこで挿入される必然があるわけでもなく、それでも映画を見ているこちらには強く喚起されるものがあるということだ。興奮は収まらない。『王国』に限らないが、特に人物のいない風景、それも格別に構図の決まったショットとかそんなんじゃなくとも、そこらへんの町のそこらへんのなんにもない場所であっても、それが映画の中に出て来ると強い感興を齎すのはなぜか。(よい)映画はすべてに意味を持たせる。言葉としてのそれではなしに、ただそこにある、映っていること自体に意味が生じる。こちらの意識が映画の中に入り込み、沸き立つものを感じている。

映画を2度3度、人によっては100回、200回と繰り返し見ることはある。おれだって『王国(あるいはその家について)』自体2度目だし。それで云うと『王国』の場合は映画の中で繰り返しが起こる。数えたら面白いぐらいに。見るのが初めてなのに2回3回、4回5回と繰り返し同じ場面、同じセリフを見て、聞くことになる。それは稀有な体験であると同時によくあることでもある。あらためて映画を2回以上見なくても、見た後に頭の中で部分的に思い出すようなことは誰でもしているわけだし。「繰り返し見る」って、じゃあなんだ?という。音楽だったら繰り返し聞くのは寧ろ当たり前だ。中学の頃に同級生がビートルズの「Your Mother Should Know」だけを遊びに行った時にひたすら聞いてたことあったのをしょっちゅう思い出してる(この思い出しも繰り返しだ)。おれだってザ・バンドの2ndだけをひつっこく、ほんとそればっかり聞いてたりしたことはあるし、音楽なら聞くだけじゃなく、鼻歌歌ったり、カラオケで歌ったりしてまで再現に次ぐ再現は普通に行われている。映画内でだから繰り返しが行われる、作品自体が見てるこっちより先に繰り返しをしてくるのが『王国(あるいはその家について)』だ(タイトルもこの文章の中でリフレインとして機能してる)。ひとつの映画の中でおなじシーンが繰り返されるって、そういや思い出した大島渚の『帰って来たヨッパライ』だ。あれがあった。

youtu.be

他にもシーンが繰り返される映画はあると思ったし、最近流行りのタイムループものも、おんなし場面を繰り返すのが寧ろ見どころになってる。案外と同じシーンを繰り返す映画ってのはあるなと、いま書きながら気がついたゎ。『王国』はそれらを更に煮詰めたようなものとも言えるが、しかし、繰り返しがそれでも見ていられる、見ていることが快感になるのはなぜかと考えると、生身の人間がやってるからというのが大きいんだろうなあ。これがアニメであれば、すぐに耐えられなくなりそうではあるし、もしマンガで同じことがやられれば、ページを適当に飛ばして、すっかり飛ばし読みになってしまうだろう。マンガであれば、作者は同じコマのコピーをするかも知れない。わざとそうして効果を狙うというのはあるが、その場合はむしろ読者との共犯関係があってこそ、だ。しかもここまで執拗には出来ない。『王国』のようには。映画という、向こう側で勝手に速度と順番を決められるものであることの有利性が『王国』には働いている。いま速度と書いてしまったが、流行りの倍速視聴で『王国』を見たらどんななんだろな、そういや。倍速視聴自体、おれはしたことがないんで、想像がつかないが。やってみる価値はある。いまはそうだ、見る側の態度と自由について書いている。たぶん。自分でもテーマはわかっちゃいないが。『王国(あるいはその家について)』を1度目はストリーミングで見たが、ストリーミングやBlu-rayであれば倍速視聴もそうだが、それこそは気に入ったシーンをその場で繰り返し見ることも可能だ。聞き損なったセリフを確かめるためにちょっと前に戻って繰り返し見ることもあるだろう。家で見ていると劇場とは違い、途中で止めたりしてしまうこともあるんで、ちびちび見たり、また頭から見たりで、いつまで経ってもエンディングまで辿り着かない場合だってある。カフカの『城』の如くに。映画は見ていれば途中で寝てしまうこともあるし、『王国』であれば、冒頭の調書の場面と最後の独白だけを途中寝てすっ飛ばして見るという体験もありうる。そうであればその人にとっては繰り返しは存在せず、ストーリーとしては不可解ではあっても、何か起きて解決のついたドラマとして存在しうる。映画はじゃあ、どこに存在するんだろう?映画と見てる人間の間にか。ゴダール式の「&」ってやつか。『王国』ではそのストーリーは隠されている。今回、上映後にシナリオブックの発売とサイン会があり、購入もしたが、たぶんそこには一通りのストーリーは書いてあると思われる。しかし『王国』ではその正体は最後までわからない。見えない。知らない場所で知らないことが起こっている。その断片がたまに見えるだけ。話は前進せず、戻ったりする。そしてたまに新しい状況とセリフが見ている我々(いま「我々」って言いたかったから言ってる。「側」でも「人間」で「こっち」でもいろいろ当て嵌まる。いま「我々」と選択した)の前に置かれる。やっとエサが来たみたいだ。腹も減ってる。食する。喉を通ってゆく。映画はこちらの咀嚼も消化も知らぬので勝手にまた同じセリフとシーンを繰り返してる。特異な映画だがしかしストーリーは追っている。意識せずともストーリーというのは人は自分の中に組み立てているか、過去に知るストーリーのどれかに組み込ませてる。今から40年前、20歳の時に生まれて初めてジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』を見た時、思いつき並べてるだけじゃん、めちゃくちゃやってる、わぁーい!うれしーな!みたいに見終わった後になって、舞い上がってた。感動して興奮してた。それであまり日を置かずに2度目をみたわけですよ。そしたら案外にお話があって、あれ?となり、ちょっとがっかりしたんだった。なんだデタラメじゃないんだって。その後3回、4回、5回、6回、たぶんもっと見てるが、、といって数えられるぐらいだけど、何度か何度も『気狂いピエロ』は見てて、すっかり好きな映画ではあるんだけど、2回目のがっかりは克服できた、じゃあそもそもストーリーも何も理解してなかった初見の時になぜあんなに感動したのかって考えてみたの。無意識下ではきっとストーリーを掴んでいたせいだと思ってる。人の感動の領域は狭く、特に物語であれば類型的であることが感動の契機となる。来るぞ来るぞ来るぞと待ち構えて、さあ来た、となり、泣いちゃうのだ。ストーリーなんてありきたりでいいんだって、正にゴダールがつぶやいてる。でもストーリーは必要だ。人の心の乗る器、乗り物、それがあってこそ。とりあえず乗車して見学。道中はデタラメでもいい。けど乗り物には乗っかってる。人の理解は物語にしてようやく把握に至る。物語は薄くても裏でも、ぐっと濃い口でも構わない。けど、ナシってわけにはいかない。物語がない状態でも、そこに見てる側が物語を乗っけてしまう。よい映画は見てる人間に物語を作らせる。見ながら補い続ける。そこにいる俳優に、画面にはない動作とセリフと過去の事情と気持ちを忖度する。物語が膨らみ続ける。画面にはない情報が足されていく。見ている者自体の物語、人生と生活と思うことすべて、全部がその映画と併走しだす。映画を見終わってもその併走は続く。一年経ち、ある日急に『王国(あるいはその家について)』が身内に甦り、得手勝手に走り出すかも知れない。もう併走でさえない。独走だ。そこから更に2年経って再び『王国』を見るかも知れない。独走して、息切れしてたのが、そこで再び息が整う。

『王国(あるいはその家について)』の様な映画の場合、どうしても手法の話に終始しがちで、それはこの文章がまったくそうなっちゃってる、ストーリーから差し出されているテーマが置き去りになりがちにはなる。そこをいま、反省している。もっともっとお話とテーマの話をすべきだ。子供が一人死んでいる。そのことをきちんと気にしなきゃいけない。でもおれはいま、手法とそこから触発されたものについては言語化出来ているが、『王国』の中の人間関係、夫婦2人とその妻の友達、そして夫婦の子供一人につき、言葉が出て来ない。うっすらと感じているものはあるが、それを言葉にして粒立てたくはないし、それ以前に言葉にならない。なんとなくそういうことはあるよねとだけで理解している。人の気持ちの機微、そのどうにもならなさ加減と身勝手さ、行動としては異常ではあっても、そこに格別な名前はなく、タガが外れているのに、そこに至る流れだけはある。見ていればわかるのに、説明は出来ない。説明では事足りない。説明してしまうと、その結果が余りに凡庸で、きっとそれがいやなのだろう。人の心は掴み難いが、結果的にはいつでも凡庸だ。つまらない。簡単に言葉に置き換えられるものでしかない。この『王国』というフィクションの中で死ぬ子供は、ともすれば脚本家が案じた仕掛けにしかならない。となると犯人は脚本家ということになってしまうが、そうではなく、ここに出て来た3人の大人の不如意の結果なんだ。その陥穽にその子は落とされた。ひどい話だ。大人はいつでも無力だ、ではなく、この世界で子供を殺してしまうのは何十億といる大人たちの責任だ。いつでもそう。大人は責を果たさない。

『王国(あるいはその家について)』では画面の光量が一定しない。場面ごとに質感が違う。同じ屋内ではあっても、その度に照明の質が変わる。第一どアップも多く、その場合は肌合いがしっかりと見えるそれで暗いところは微塵もない。出てる人はごく単純に自分の肌、毛穴までしっかり見られるのは気恥ずかしかったりはするのだろうと見ながら勝手に心配してた。でもなんだろう、実際に他人の顔をこうもまじまじと見つめ続けることなどは実生活では滅多にない。自分の子供の顔を仔細に観察することはあったり、ベッドで相手の顔を間近に見つめたりはあるが、単に他人の顔をじっと見たりはしない。そんな機会はまずない。あ。それでいま思い出した。YouTubeでは本人の顔のどアップって、随分とあるのだ。そういや。YouTube以前には映画のどアップぐらいしか、そんなのはなく、しかもYouTubeの場合、ビデオ撮りで、照明をしっかりと充て、カメラに向かい喋ったり食べていたりと、TVなどで段取りやメイクをしっかりと誂えたものに比べ、ずっと本人に近い、例え演出はあっても、ごく、日常に近い。

2時間半ぐらいの映画だが、10分にも、1時間半にも、5時間にも『王国』はなりうる。ストーリーの部分だけで云えば、最初の調書の確認場面だけで終わったとしても、そういう短編として充分に成り立っている。同じ場面、同じセリフの繰り返しが続き、ではどこで区切るのか。どこで結とするのかには法則はない。決まりはない。これは順撮り(?)なのか、それともある程度の長さ、回数を重ねてから編集で前後を並べ替えているのかはわからない。繰り返しはあっても、徐々に話が進んでもいて、前になかったことが起きる、それで少し前へ話が進む、というか、見ている人間に情報が渡されたので、見てる側で物語が補完される。牛歩ではあっても、それでもストーリーは進んでいる。ただの停滞、繰り返しのみじゃない。推進力がそれでもフィクションには必要だ。そこに映る顔や光、声に魅入られてはいるのに、それだけでは満足はせず、物語を追っている。人は物語に置き換えないと状況を理解できない。物語を作り出し過ぎるという人間の持つ悪癖もあるが。

はじめの調書場面、亜希(澁谷麻美)の喉元までしっかりと嵌められたブラウスのボタンを見て、「すいか」の小林聡美を思い出していた。そこ以外で亜希、ではなく澁谷麻美は稽古中なので、スウェットなどを着ており(再びちゃんと見て、着ているものをいちいち確認したいが)、冒頭のブラウスだけがとてもきっちりした硬い様子で対比的でもあった。そういう役ではない部分で云えば、澁谷麻美は最後には目が赤く充血しており、そこまでにはその印象がなかったので、赤い目が記憶に残っている。そういえば我々は(「我々」といま、言いたい。理由はない)『王国』で役を見ているのか、役者を見ているのか。いや、どちらを見ているのかと敢えて気になるのはこの映画の作りがそこを意識させるからで、映画を見ていて、役と役者、両方を見ているのは割りとふつうだ。

途中から走り出して、最後、倉庫だったか、ともかくも殺風景でわざわざ行くような場所ではない所で止まった車の様に、この文章もなにかが起きつつも、傍目にはなんとなく止まるようにしたい。

「荒城の月」が何度も歌われるが、『王国(あるいはその家について)』の中では、「荒城の月」で真っ先にいつも浮かぶのは壷井栄「二十四の瞳」で、だが、木下惠介の映画版の中では「荒城の月」がなく、そこがすごく不満だった。「二十四の瞳」は最後に「荒城の月」が歌われることで、無常が胸に迫るのに。『王国』がどこまで「荒城の月」の歌詞内容を意図しているのかはわからない。あ。かつての「王国」ということか。過ぎ去りし繁栄の日々への想い。そういうことか。見てる時にはわかってなかった。というかそもそもタイトルからして『王国』に関わらず見ている最中はいまいち「王国」のことが理解できてなかったんだ。でもそうでもないか。見ながら「王国」のイメージとしてはアニメの「火垂るの墓」で水辺に兄貴が妹と2人きりの世界を作り、閉じ籠もるのを連想してたし。というか、おれが「王国」として真っ先にいつも思い浮かぶのは「火垂るの墓」のそれなんだ。おれはひどく退嬰的なので、妹と2人きりの世界に住まうことを考えることが多く、それは「王国」なんてものじゃなく、おれも妹も小学生くらいの頃、夕方にこたつに入って「巨人の星」かなんかを妹と2人で見ている時間のことで、いつでもそこに戻りたいと思っている。それが「火垂るの墓」を見る度、ああこうして「世間」をのかして2人だけの平和な世界にいるのっていいな、2人きりの「王国」にと、そこで初めて「王国」という言葉が出て来る。そう、だから、おれは「王国」を知っている。既に知ってる言葉だった。しかしもちろん永遠なんてもんはなく、というか、永遠どころか、ほんの刹那で、あっという間に終わってしまい、でもだからこそ、そこに永遠を見出してもいる。なんてことはない、モラトリアムだ。望むべきモラトリアム。ひとときの、同時に「永遠」の「王国」=「モラトリアム」。すぐにそこは過ぎ、雑音まみれの、忙(せわ)しない、人の目を気にする時間が始まる。無常、なんてカッコいい言葉も本来は似合わない、ちんけな現実逃避の終了タイム。

亜希(澁谷麻美)は最初の調書の確認の場面の時には服もきっちりしているが、表情も硬く、最後の特別な微笑みの他は笑顔もない。それがリハーサルに入り、直人(足立智充)、野土香(笠島智)の夫婦との歓談の場面となると大きく笑い顔になるし、そこでは歯が見える。あ、歯が見えた、と強く印象がある。でもそこで歯が見えるほどの笑顔はあくまでもリハーサルの最中のことでもある。いま、役名と俳優名を同時表記したが、『王国(あるいはその家について)』に於いて、今見ているのが役者なのか、役なのか、わからなくなる。今見ているのはどっちの笑顔なんだ?亜希か、澁谷麻美か。リハーサル風景ではあってもカメラは意図を持ち、そこにあり、オフの場面は更にない。芝居に関しては滞らず続けられている。芝居しか映ってはいない。芝居でないものとしてはスタッフの指示が聞こえる、それだけだ。役者は芝居をしている。そこだけしか映らない。一方、撮影と編集をしている側は「映画」を作っている。動画として撮影、編集され、最終的にまとめられ、公開されると、その画面に映っているものに関して、衣装やセット内で行われている芝居も、殺風景な会議室で行われている本読みも、見ている側にとって差異はない。画面にある限りすべてがフィクション、見せるための意図した表現だ。物語をそこから汲み取り、見ながら組み立ててしまうので、ジャージ着て本読みをしていても、見てる方からしたら、物語は進行している。物語と物語以外、じゃない。画面にあるものはすべてが等価だ。揺らめく光も水筒も等しく物語の形成に寄与してしまう。意味があるようになる。画面上に無意味なものは存在しなくなる。すべてが読み取れる。過剰にそこに存在してる。その過剰性が気持ちいいんだよな。見てるとさ。見ていてノッて来ると、事物も人物もそこにある感情もセリフも、それらを映し出すカメラも、その「映画」を作っている者たちも、すべてがこちらに語りかけ始める。その言葉を拾うのに忙しくなる。わあわあしてるうちに映画は終了する。なんか全部聞き取れなかったなあ、聞き逃したもん、全部こっちに欲しいわと、またその映画を見るでしょう。

上映後、草野なつか監督、直人役の足立智充さん、亜希役の澁谷麻美さんの3人によるトークがあり、更にそのあとで、シナリオブックにサインをくれるというので列に並んだ。映画見ながらいちばん(?)気になってた澁谷麻美さんのそばにあった水筒について「無印良品のですか?」とご本人に尋ね、そうですと答えを得られたので満足した。

サマソニ2022 その3

サマソニ2日目、会場ついてまずはごはん。中華そば。

入場まで人が多くて、混んでて並んで待つ感じでまだるっこしかった。朝イチは混むんだなあ。入場口一個っかなかったし。朝だと。

そして1発目はソニックステージで羊文学。

フェスだとリハーサルがあるわけだよね。客前で。そこは見て見ぬふりで。

ギターとベースとドラムだけだのに、音が厚い。ふしぎだよね。ギター一本しきゃないのに。ギターとか、どうやって音、決めてるんだろう。ギター相当上手いんだよね。てことは。レコーディングなら音は重ねられるけど、ライヴだと。特にテープ(今はパソコンからかそういう音出したりするの)使ってるわけでなし。ほんと楽器3つと声。しゃべるとふにゃふにゃなのに、歌声はしっかりと強い塩塚モエカ。ヴォーカルの印象が強いけど、ギター力。ずっと見てたい気持ちよさある。見れてよかった。

その後はまたビーチステージへ移動。昨日と違い急ぐ必要はなかったので素直にシャトルバス乗ってった。

今日は比較的明るい。雨は大丈夫そうだ。結局降らなかったかな。一時、ちょっとだけはあった気がするけど。

昼過ぎ、12:30からモノンクル。これまたベンチに座ったまま見てた。体力が。

モノンクル、よかったな。いいのはわかって見に来てるわけだが。もっと見てる人が多くてもよかった。でも見てる人たちはみなたのしそうだった。ロートルでベンチに座ったきりだったおれもたのしんじゃいたんだ。

モノンクル終わってからマリンスタジアムの方へ移動して(マリンスタジアムとビーチステージは同じエリアの違う場所って感じ)4種チーズとはちみつのピザで昼食。外で地べたに座り食べた。晴れてた。

それでまたビーチステージへ戻り、例によってベンチで長く過ごし、もう既に体力はだいぶんない、サマソニとかっていうより、元から疲れてんだよね、あと同行者のいるでなし、勢いに欠ける。

海の近くで、トンボが飛んでた。

今回、写真はほぼ撮らなかったな。なんかカメラ構えるのがめんどくさくて。なんとなく。

15時すぎてからchelmico。ビーチステージでベンチからのんびり聞いてた。

2日目、今日はでもいつ帰ろうか、ずっと悩んでた。気持ち的には、体力的には早く帰りたい。でもせっかくならって気もある。どうしようかどうしようか。

chelmico、途中で切り上げて、メッセへ。なんか食おうと思って。早目の夕食に。

沖縄そば食った。chelmicoの前にはいちごけずりも食ってたかな。美味いよね。いちごけずり。

それでまたマリンスタジアム方面へ戻る。あっちこっち忙しい。

このへんでスマホの充電が切れ気味なのに気づく。というかスマホというよりか充電器が機能してない… スマホに充電器繋げたままなのに全然増えてかない。あれ?あれ?となり、ようよう充電器の充電が切れてることを認めざるを得なかった…

これは不覚。ゆうべ寝る時に充電器には特に充電はしなかったんだよな。まだまだ保つって思ってたし。甘かった。結構いっぱい充電出来るやつなんだけどな。2日間は楽に保つかと思ってた。くぅぅ。(この辺から焦り始める)

というか、これがあったため、じゃあ帰ればいいかと方針も決まったのだった。

ほんで帰宅までの充電がないのも不安となり、インフォメーションへ向かう。したらそこに充電コーナーがあった。アプリ入れて、それで契約して、充電器一台借りれるという仕組み。へー。こんなんあるんだ。初めて。しかも返却は地元のセブンイレブンとかでいいという。上手く出来てんな。感心。

これでとりあえず充電はセーフ。

じゃあもう一押しということでマリンスタジアムでメーガン・ジー・スタリオン。

もう始まりだしてたから、途中入り。したら、いきなり持ってかれましたよ。なんかすげー。なんだろ、このグルーヴとスケール感。こういうのってほんとふしぎ。基本、おなじじゃん、なんつかライヴって。歌と演奏、あとダンスとか。でもパッとしないのもあれば、こうしていきなりなんだこりゃみたいのもある。わからない。何がどうなってんだ。メーガン、正直聞いたことなかったし、YouTubeで一瞬見たことあるぐらい?でも興味はあったし、良さそうだとはわかってはいたから見に行きましたが、ほんとよかった。一瞬で堪能。この充足感。充実感。大画面の彼女もあんだけど、遠くにちっちゃく見えるメーガン見てるだけでもすごい絵になってんだよね。なんだろあれ。ふしぎ。オーラとかスケール感とか、そんなことしか云えねぇ。

ラップのステージなんてさ、随分とシンプル、というよりスカスカじゃないすか。音はどっかから鳴ってて、あとは歌手がいるきり。まあメーガンの場合も他にダンサーズもいるけどさ、それにしても。なにが違うんだろ?わからん。ともかく、いい。

スタジアムは満員で、でも実際には次のワンオク目当ての人が大半じゃなかったかとは思うんだけど、それでも、その人たちも充分に盛り上がってるのがその場にいてわかった。なんか掴まれちゃうもんがたしかにそこにはあった。グイと。メーガン力。

見れてよかった。

それで、でも充電の保ちも気にはなってたし、疲れもあって、盛り上がるメーガンを背に帰ることにした。でもずっと彼女の音が聞こえてる間ワクワクしてたなあ。それに昨日のKIRINJIでもそうなんだけど、ショーの途中でその場を離れてく、その感じになんかいいもんがあるんだよねえ。フェスの気持ちよさが。

ほんとはSTUTSも見たかったし、スクリーマデリカライヴも見たかったけどさあ、ちょうど「ボビー・ギレスピー自伝」が出たばかりで興味湧いてたから。でもまあ、明日は仕事だし、疲れちゃいるし、スマホの充電も怪しかったし(ちなみに帰宅後早速近所のセブンイレブン行って、クルマで、したら1軒目のところが返却する場所が塞がってて、しょうがない2軒目行ったら1個分空いてて返せた。スッキリ)。

それで結局、夕方6時ぐらいだったかな、サマソニ後にしたのは。

駅までの道も空いてる。

海浜幕張の駅へ向かう途中、若い女性2人が前を歩いてて、サマソニのリストバンドはしてなかったような気がする、手を繋いでて、二人の指は絡み合ってた。少し指で話してた。といって二人の関係に関してはおれの勝手な憶測でしかないのだけれども。で、彼女らを追い越す時にシチューがどうのと聞こえた気がするので夕飯の話でもしてたのか。判らない。ただそうして町中で、人通りはサマソニ帰りにはまだ早く、人気(ひとけ)はなかったので、その二人と、二人を通り越すおれぐらい、近くを通ったのはそのときはおれぐらい、だから余り気にせずそうしてたのか、おれは初めてそういうカップルを見た気がする、今まで気がつかなかったのか、表に出れる雰囲気がそれでも前に出れるようになったのか、周りに人がいなかったからか、そのへんは判らない、ただおれには初めての遭遇で、彼女らの生活や人生をつい考えるし、なんていうか、生きていれば人と出会いつきあうので、それが良い関係であればもちろんよく、周りが穏やかであればそれが望ましく、おれは未だに珍しい遭遇としてこうして語ってしまうレベルで、それはこちらの勝手な思いでしかなく、おれみたいのがもっと減り、もっとなんてことなくなれば、それが一番いいんだろうな。

リナ・サワヤマ見たのは偶然じゃなかったとそのとき思った。おれの勝手なセンチな思いでしかないけれど。語れるほどには大した考えもないのだけれど。

サマソニ2022 その2

14:30ぐらいに終わったのかな、リナ・サワヤマ。

その後、バインミーが気になってたんで、それを食べる。割りと並んでたかな。その時は。美味かったな。食いたいものだったし。

それ食ってからマリンスタジアムからメッセへシャトルバスで戻る。

いちばん見たかった3組を立て続けに見たのもあって、疲れちゃったし、ここはのんびり休憩タイムだあと次見るのもぼんやりしたまま冷房の効いたメッセの中で過ごす。

でも席がいつもより少なくなってたのもあり、あまり隣り合って座るのもやだなあという気持ちもあったし、多くの人がそうしてたように、朝イチのタイラーメン食った時以外は地べたに座ってメシ食ったり、壁際で休んでたりしたかな。

今回、除菌ウェットティッシュ持ってったのはアタリだったな。大いに役に立った。

でも意外とそれらしいもの使ってる人、他に見かけなかった。食事前にも途中にも手を拭けるし、便利。なんか食う時にはまずはショルダーバッグから出してた。

メッセでは結構長めに、特に何するでなし、ゆっくりしてたと思う。今回は音楽会場だしとイヤホンも持つことなかったから、radikoやポッドキャストも聞くことはなかったし、YouTube見るとかもさ、なかった。時間潰しにはでもそういうのが向いてるかもなあと後から思う。次回は用意しとこう。

夕方近くなってマリンスタジアム方面へ戻る。基本、野外にいたいんだよな。陽射しもなくて、幸いそこまで暑くなかったし。ビーチステージ方面へ。海っ傍にいたいもんね。せっかくなら。ふだん海とは無縁だし。以前ガーデンステージってのがあり、それも海近くで、そこがいちばん場所として好きだったし、居心地もよかったし、そこで見るライヴが大体好きだった。でもなくなっちゃったんだよな。あれ、復活して欲しい。ビーチステージだと地面が砂で歩きづらく辛いしね。

それで夕方から雲行きが怪しくなってパラパラとは降り出してはいた。どうせ濡れてもいいかとも思いはしたけど、せっかくレインコート持ってきてるので、いまこそ出番だとばかりに、クロークへ行き、レインコートを取り出し、身に着ける。クロークではマスクしてるのと湿気でメガネが曇り、すごくストレスだったけど、見えねえ、なんとか着る。いざ着てしまうと用意のいい僕みたいな気分になるし、レインコート自体気に入ってるので、着れてよかった感もあり、雨のサマフェスというのも定番じゃあるし、まあいいかな、と。

ビーチステージでは座ることは出来るんだけど、雨は避けられない。日除けに屋根はついてはいても、あくまでも日除け用のそれで雨は落ちてくる。

いちごけずりとか食ったりしながらビーチステージのベンチでずっと座ってた。

それで18時からスチャダラパーがスタート。ベンチに座ったまま遠くから見てた。

べシャリも上手く、安定感。おれにも分かるヒット曲やってくれるし。「今夜はブギー・バック」も「サマージャム95」も。わるかないね。いい感じに過ごせた。

もう暗くなってきてる。

その後、一旦メッセへ戻った。次、同じくビーチステージでKIRINJIにしようと思ってたんで、スタートの21時までまだ時間があったから。ちゃんと屋根のあるところに行きたいというのもあったしね。パッタイ食ったりした。そして適当なタイミングでビーチステージ方面へ再び。着いた時はTahiti80の最後の方だったかな。ほんとはそれも見るつもりもあったけど、雨でビーチステージにい続けるのが困難なので、一度メッセへ行ったためにこんな感じになる。

またしてもベンチにずっと座ってじっとしてた。雨は降り続いてる。帽子被ってるし、感覚としてはそこまでじゃないんだけど、暗い中、ライトに照らされた雨の量は結構なものだった。

KIRINJIはでも初めてだ。見るの。坂戸出身ということで親しい感じがあったんで、いつかは見たいぐらいの気持ちはあったから、サマソニで見れてちょうど良かった。

音楽としても、フェスで聞くには気持ちいいしね。とりあえず「Killer Tunes Kills Me」が聞ければと思いながら見ていて、演ってくれたんで満足。YonYonの韓国語ラップの部分、堀込兄がやるんだなあ。

しかし、そうは云っても59歳にフェスで過ごす一日は肉体的にキツく、早く帰ってのんびりしたい気もあって、KIRINJIは途中で切り上げた。帰路へ。

帰り道、少し高くなったビーチステージの歩道部分から見るKIRINJIはわるくなかった。ちょっと切ない感じと、いい音と、少し遠くに見える暗闇の中のライティングされたステージ。

ビーチステージから抜ける道の途中の店じまいし始めたコーヒー屋でアイスコーヒーを所望。売店の女性はフジロックのTシャツ着てたのがなんかおかしかった。

海浜幕張の駅まで行くとそこまで混んでなかったかな。本格的な帰り時間はまだもうちょっと後だもんね。それにおれの乗るのは蘇我方面で、多くの人は東京方向なんで、ホームは尚更空いてた。

フェス後、電車に乗ると左腕に巻き付けたリストバンドが恥ずかしかったりするよね。まだ海浜幕張近くはいいんだけど、段々離れて行くと、なんか浮かれた人に見えてるんじゃないかと気にしてる。まあ同好の士がそれなりきにまだまだいるわけだけど、千葉駅あたりまでは。泊まりの人は千葉駅利用者が多いしね。おれも千葉駅近くのホテル。

夜で暗いしで、一回違う方向に行きかけたけど、すぐ引き返して正方向に。Google Mapだよりになってから昔よりもずっと迷うようになった。おれ、東西南北とか、そういうのがわかんないんだよな。目印とかじゃないと行けない。地図的なものは昔も見ながらだったはずなのにGoogle Mapだとなんかだめ。わけわかんなくなる。とりあえず動いて、目的地に向かってるか否かで判断してる。いつも。

そいで一旦ホテル確認してから、セブンイレブンへ。ビールとつまみのポテトサラダと明日の朝用のヨーグルトとカフェオレとバナナオレと。そしてチェックイン。おれとおなしタイミングでリストバンド付けた人チェックインしてた。なんか恥ずかしい。ささっと自分の部屋目指す。

部屋入るとすぐにお湯をひねり、お湯を溜め始めた。前はホテルの風呂、シャワーだけしかしなかったけど、お湯溜めて入るのもいいなと思うようになって、お湯溜めてる。

荷物を解いて、服脱いで、セブンイレブンで買ったやつ冷蔵庫に放り込んで、必要なもの、机の上に出して。

風呂入る。

疲れてるし、雨で濡れたし、気持ちいい。

風呂から出ると、スマホでParaviでその日放映されたばかりの「石子と羽男」を流しながらスーパードライ生ジョッキ缶開ける。ポテトサラダちょびちょびつまみながら飲む。こういう合間の時間、幸せ。モラトリアム。こういうのってさ。

KIRINJIを途中で置いて、少しく早くに引き上げたりもしたわけだけど、なんかそういうのも含めて気持ちいい時間だった。自分の時間。自分だけの時間。

「石子と羽男」は見やすいエンタメドラマで、そういう丁度良さも丁度良かったし。この今の時間に合ってる。気安さみたいなもの。

今回(”今回”って遣いすぎてて我ながら気になってる)、ビールはじめアルコールは会場では全く飲んでない。なんかそんな気になんなくて。ずっとウォーター。あとアクエリアスとかそんなの。番外編でアイスコーヒーぐらい。前回の時はそれでもビールぐらいは飲んだりはしたけど、そんな美味くも感じなかった記憶。年取ってアルコールに弱くなってるみたいのもある。もう何年も前のサマソニで、ビールと、飲料会社のその時の推しのカクテルみたいのとかあって、それをパカパカ飲んで、いちいち美味くて、たのしかったことある。あんときはなんであんな飲めたかなあ。今よりそれでも若かったせいか。

で、会場ではゼロアルコールで、ようようホテルで風呂も済ましてからの一杯のビール、これは美味かった。タイミング大事。

で。飲むついでに日記も書いてた。日記は休みの日などに書いたりしてる。ここにこうして書いてることとそんな変わんない。違うのはふつうにノートに書いてるというだけ。

ホテル帰って、でもスマホで流してたのはリナ・サワヤマやリンダリンダズじゃなくて、ポール・デイヴィスの「Cool Night」やジョニ・ミッチェルのアルバム「BLUE」だったりした。なんか切ないもんが聞きたくなってたし、サマソニ行く前からそのへん聞いてたりしたからその延長ってのもあった。

youtu.be

サマソニ、近くなると意外と見たいのじゃなくて他のもん聞いてたりする。それで終わって帰宅してあれこれツイッターとか眺めてるうちに自分が見てきたのをYouTubeで検索しては流し始めたりする。帰宅後はだからリナ・サワヤマ・ブームだったりしてた。羊文学やリンダリンダズもさっき流してたりする。

旅先でもちゃんとデンタルフロスするいい子なんで、例え飲んだ後でも必ずそう、歯磨き済まして、マウスピース、上の歯に装着して、点鼻薬してから鼻呼吸テープつけて、そのへんはいつもと変わらない寝る支度した。

寝たのはもう1時は過ぎてた。2時?それよりは早かったような。すぐに眠れたと思う。

でも朝、目が覚めてしまうのもいつものことで、それでも目覚ましかけといた6時半までは横になってた。起きるとすぐまたお湯溜めた。歯磨き、髭剃り、風呂など済むとゆうべ買ったセブンイレブンのそれで軽く朝食。ポテトサラダの残りとバナナオレにカフェオレ。

9時頃にはもう部屋を出たかな。チェックアウト。

2日目のサマソニへ。

サマソニ2022 その1

サマソニ行く前からはいつも新しいズック買ったりしてる。ひと月前とか。

でもこの前(4年前?)(2018年の筈)行った時は靴が合わず、ひどい目にあった。無理くりサンダル買ったりして履き替えてなんとかしたりした。

今回はさすがにいつも履いてるのとおなしタイプのにして、しかも何度かは意識的に履く日も作ったし、まあ、大丈夫だった。

それと帽子買った。サマソニ行く時はいつも帽子被るようにはしてて、普段は無帽なんだけれども、サマソニ仕様。前行った時はユニクロで買ったやつだったけど、今度は地元のショッピングモールの帽子専門店で。パナマハット。ユニクロのも型としてはそんな感じの。もうちょっと麦わら帽子っぽいかな。今回のはもっとパナマ帽らしいの。少しお高い。9200円。本物のパナマ帽だともっと高いけど、だからそれよりかはグレードは劣るわけだけれど、形も色も気に入ったし、これにした。

買う時、店の若いオニイサンと話して、こんな感じのみたいに軽く相談しつつだったんだけど、おれはその時「海辺行くイメージで」とか言って、それで海辺だと風が強いから飛ばないようにしないとみたいな会話になって、とはいえでもそんな海っ傍(ぱた)でもないんですよとおれは言い、実はサマソニ行くんですとうふふな気持ちで口にしたら、彼は少しさみしそうな顔して「大阪ですか?」「いや、東京です」と返事して、そして更におれは「サービス業だとねぇ、休めないしなあ」とある種共感を持ち、彼に伝えた。

行きたいよね。フェスね。夏フェス。

おれも休みらしい休みはないけど日曜は休みだし、土曜日も休もうと思えば休めはするんで、こうして行けはする。ほんとは月曜まで休んで、最後までゆっくりしたいけどね。それはちょっと無理。前はそう出来た時もあった。

あともっと前だったなら、土日に休むとか出来なかったんだよなあ。今の職場で。いつからか、なんとか休めるようにはなり、サマソニへ行く習慣にはなった。

帽子屋の彼氏もなんかしらフェスに参加出来るといいんだけどね。願ってます。

 

他に持ち物として、スマホ用のショルダーストラップも買っといたし、実際ずっと使ってはいたんだけど、案外と使ってる人、会場でいなかったなあ。もっとみんな使うものかと思ってたよ。そうでもなかった。いまスマホは必須だからさあ。なのに邪魔だしね。でも、おれ、せっかくのショルダーストラップあったのに、何度か会場で焦って地面にスマホ落としたりしたからなあ。中々上手くはいかん。

あと、ショルダーストラップしててもスマホはぶらぶらと腰の辺りでしてしまうわけで、だからおれはずっとショルダーバッグの前面ポケットのチャック開いてそこへ突っ込んでた。正解がわからん。

前行った時は首から下げるタイプのだったし、それはそれでよかったけど、それだと首が重いからね。だから街中でショルダーストラップ見掛けて、あれ欲しい、サマソニで行けそうと思って買ったんだよね。まあ実際使ったわけだし。いい買い物ではあった。

 

サマソニ行く少し前に歯医者で右下の歯にセラミックの被せ物するのも終わってたし、仕事も一旦は片付いたし、行く前日には忘れず除菌ティッシュも買ったし(これが一番役に立ったかも。ほんとちゃんと用意してってよかったNo.1)、ちょっと前に100円ショップで買った細かいもの入れるための小分け用の袋もあったし、なんか過不足なかった。(おれは泊まりなんで持ち物がどうしても多くなる)

 

当日は5時起きで幸い雨はなく、イオンで買った冷凍パン一個だけの朝食、予定通りの電車に乗れた。当日の朝は髭剃りやらヘアワックスやら、直前で使用して、それからバッグに詰めるものもあって、そこがいつも気持ち面倒。電車は海浜幕張着くまでずっと座れた。途中、武蔵野線に乗り換えたけど、それも空いてたし。武蔵野線はしかも海浜幕張直通のやつだったしね。いつもは西船橋とかで乗り換えじゃなかったっけ?

海浜幕張着いたのが9:02。早い時間だけど、既にだいぶん混雑してた。みんなまだチケット交換とかもあるからね。これまではもっと遅い時間だったな。10時半とか11時ぐらいじゃなかったかな。海浜幕張着くの。今回は11時からのリンダリンダズがあったから、とにかく早くということで。

行きの電車の中ではPOP LIFE: The Podcastのボビー・ギレスピー自伝を巡る回を聞いていた。おもしろかったし、サマソニ2日目、プライマル・スクリーム、スクリーマデリカライヴは見たくなった。ただまあ、時間的に2日目で遅い時間で無理あるなあとは思ってたけど(結果見ることなく帰った。残念)。

open.spotify.com

 

チケット(2日分)の交換するところまでは遠いんだよねえ。ぼんやりとは場所は憶えてはいても、3年ぶり(?)だし、距離感の記憶が違った。思ったより遠い。気が急(せ)いてるのもあったかな。リンダリンダズで。

今回からはさすがのスマホチケット。サマソニでそれは初めてだからちょっとドキドキ。そして入場。手荷物検査、でもあれ、再入場繰り返すうち、段々雑になって来る。それはそうね。見たフリ、ぐらいになるもんな。特に最後の方とかは。ああいいよいいよ、さっさとどうぞって雰囲気。

 

会場入ると、マリーンの方ね、なんせおれには旅なんでリュックしょってるから、そいつを預けなきゃなんない。クロークは利用すべしというのはとうに学んでるし。けど、クロークの場所が前とはちょっと違った。会場のレイアウトが若干変わってたから。そりゃ変わるよね。だからインフォメーションで訊いちゃった。でも案内の人もまだ要領得なくて、目印がどれでみたいのが出来なくて、おれにはぼんやりと方向がわかるくらいだった。でもまあ、インフォメーションからそう遠いわけじゃないし、ビーチステージの門潜ってしばらくと見当つけて、行くとビーチステージとクロークで道が分かれてるので、そちらへ。

リュックと小さめのショルダーバッグをおれは身に着けてて、リュックだけ預ける。ちょっと悩んだのはレインコート。でも幸い雨の気配はなく、それは省けた。雨降ったらクローク取りくりゃいいやって。ショルダーバッグにはちょっと入らない。レインコート。

レインコートは何年か前に無印良品で買ったギンガムチェックのそれで、何年か前にそれ着たのが写真残ってる。結構それは気に入ってる写真。レインコートが可愛いし。

そのレインコート、でも女物なんだよな。ボタンの左右が違う。後から気づいた。でもレインコートはレインコートだし、特に不自由はなく。あと見た目が好きなので身に着けると気持ちがアガる。

そういえば今回は写真、ほぼ撮らなかった。なんかめんどくさくて。なんとなく。他に誰かいればもっと撮ってた気もする。一人だから勢いがつかない。

無印良品ていえばリュックも緑色の数年前に買った無印良品のだし、たぶんサマソニ用に買ったんじゃないかなあ。したらコロナで中止、と。たぶん。

そのリュック、内ポケットとかも結構あるし、便利なんだよな。だから買った。

 

ようやく荷物預けて一段落。ほ。

マリンからメッセへ向かう。シャトルバス。朝イチだからまだぜんぜん空いてる。

入場。

まずはメシと。見るものがこの後続くので早目のお昼。

タイラーメン。食ってしばらくうろうろしてたけど、なんかまだ腹減ってる気がして、更におなし店でハニーバターチキンを。これは美味かったな。タイラーメンと合わせておなかの膨れ具合もちょうど良かった。

そうね、今回はビールは一切飲まず。他、アルコールも。口にするのは水かポカリか。

お水も300円とかだから、水分補給してるだけで、一日きりでも結構な金額になる。

普通に飲み食いしてるだけで5000円は行くよね。まあ、お祭りで、そうだと承知してるからいいんだけど。カネ遣うのもたのしみのうちつうか。

前回から既にそうだったけど電子マネー(おれの場合はSuica)使えるようになったのはフェスではありがたい。現金の出し入れ、めんどくさいもんね。まあ、会計の方はといってスムースってわけにもいかなくて、実際には現金の方が早かったりすんだけど、それぐらいはね。いずれは解消されるでしょう。

 

ちなみに2日間の内訳。

2022/08/20(土)

クローク 1000円
ポカリ 300円
タイラーメン 700円
ハニーバターチキン 600円
クリスタルゲイザー 300円
アクエリアス 180円(これだけどこかの自販機)
ポカリスエット 300円
バインミー 950円
クリスタルゲイザー 300円
けずりん(いちご) 600円
パッタイ 900円
アイスコーヒー 500円

計:6630円

 

2022/08/21(日)

黄金中華そば 1000円
アイスラテ 550円
イオンウォーター 300円
4種のチーズとハチミツ(ピザ) 1000円
いちごけずり 600円
クリスタルゲイザー 300円
沖縄そば 900円
クリスタルゲイザー 300円

計:4950円

 

そしてソニックステージへ。

彼ら、子供だから、早い時間だと思ってたら、やっぱそうだった。11時から。

リンダリンダズ。

わぁお。

真ん中通路の柵(プラチナエリアの囲い?)の前方に場所取れた。

Growing Upからで、Lucia、いつも歌い切れてないんだよな。YouTubeで他のライヴ見てると。ちょっと不安になるが、それはわかってるし、いつか歌い切れる日までおれは待つよ。Growing Up、いい曲だよね。いちばん好きかも。好き。

たまにちょっと拙いところがあっても大丈夫に思えるのはMilaのドラムがいいから。そこで気持ちが安定していられる。彼女のドラムが要。バンドはドラムに支えられているのはあたりまえのことで今更だけどさ。でもさ。

Lucia、YouTubeでいろいろ見てても、いつも身体の動きがしなやかで、ダンスっぽさあるし、脚を振り上げるのとかいいんだよね。見てて気持ちいい。あと、彼女、歯の矯正具がいつ取れるかが気になってる。10代はずっと着けてるのかな。ああいうのって。取れる日が来たら、おお取れたゎあって思う(予定)。

Lucia、客にウェーヴを促したり、他にもそういうライヴでミュージシャンがよくオーディエンスに指示するのを試しに2、3やってみてて、客がそれに応えてくれるの見て喜んでて可愛かった。やってみたいんだよな。ふふ。思いつき、おもしろでやってるんで、演出としてこなれてるわけでも、演奏に上手く絡んでるわけでもない。MCタイムに、ええと、みたいな感じでやってた。そういうのも含めて、見ててほんとたのしくてさ。

Belaは割りとおとなしめというか、はしゃぐタイプじゃない。それで歌がいつも安定してるし、歌上手い、彼女は作曲面でも安定してる印象ある。リードヴォーカル取ってるから「Oh!」とか彼女がメインで作ってる曲だと思うんだけど、曲に巧みさ感じる。まあ単純に「Oh!」はいい曲ですよ。好き。

youtu.be

EloiseはWhat's in my bag?見ててもハード目の音が好きそうだし、そこらへんはおれのイメージ通り。

youtu.be

Eloiseはでもヴォーカルが今の発声だと少し無理して声を荒くしてるみたいに思えてしまい、そこが前から少し気になってる。それで久しぶりに図書館ライヴの見たら、そこでの声はスッと聞けた。彼ら、成長期でもあるし、喉の具合も変化があるのかな。

youtu.be

というかこの図書館ライヴ、まだ一年前か…

1年で大きくなるよねえ。この年頃。

リンダリンダズ、今回衣装がみんな可愛かったけど、デザイン(仕立ても?)Belaがやってんだよな。たしか。つい最近どっかのインタヴューで見た。すごいな。

スクリーンにリンダリンダズのロゴが数種類ループで流れ続けてたんだけど、あれもメンバーの誰かが作ってんのかなあ?もしかして。

リンダリンダズ、幸福感がステージ上にも客席(スタンディングだから”席”じゃないか)にも漂ってて、すごくたのしくて気分良かったな。たのしい気持ち。

でもってリンダリンダズ終わりで次のお目当てがマリンスタジアムのビーバドゥービー、移動を焦ったよ。シャトルバスは既に混んでるし、並んでるし、じゃあ歩いてった方が早かろうとすげえ速足で歩いた。気持ちは焦り続ける。歩きでもさ、結構混んでんだ、これが。隙を見つけちゃ縫うようにガシガシと。遠い。こういう時はほんと遠く感じる。息切れして、ようよう到着。マリンスタジアムは水以外は飲み物持ち込めないの知ってるし、しばらくマリンスタジアムにいることになるしと、あらかじめトイレも済まし、アクエリアスを一気飲みして、一旦落ち着いてから入場。入場はスイスイ中へ入れてよかった。既に始まってる。「Care」の途中から。「Care」、ちょっと聞けただけでも良かった。それでその後も「Coffee」「Talk」「Last Day on Earth」「Cologne」と聞きたかった曲は遅れて入ったけど、全部聞けたんでよかった。

ビーバドゥービー、かわいくて好きという身も蓋もなさですが、遠目とはいえ生で見れてよかった。正直、間近で見たかったです。でも前へ出てく体力も根性もない。

ビーバドゥービー、ドラムが大振りな叩き方(イメージ)で、ドラマーの彼氏(名前把握してない)(いま検索したけどわかんなかった…)好きなんだよな。雰囲気もドラミングも。

待望のビーバドゥービー聞けて(見れて)、そのまま同じ場所で待機。リナ・サワヤマ。

1曲目「Dynasty」でいきなりガツンと掴まれる感じで素晴らしかった。

MCはやっぱ日本語なのかなあとサマソニ出演決まった時から考えてたけど、無理に日本語じゃなくて、話しやすい方でいいから、英語でいいしとか余計なお世話でずっと考えてた、バイリンガルとはいえ、英語の方がずっと普通に話せるだろうし、日本語で話されると照れちゃうとか思ってた。

ショー自体はしばらく前にYouTubeで見たコーチェラ2022でのそれが完璧でそれを見た後は他のコーチェラの出演者見ても気持ちが入らないぐらいだった。

彼女のショーはパーフェクトな構成でいつも隙がないけど(YouTubeで今はあれこれ見れるからね)、でも今回のサマソニでのショーは完成度で云えば弱かった。初めての日本でのショー、そこで日本語で伝えるべきことがあるとの思いが強くあり、ショーとしての完成度とは別にリナ・サワヤマにはやるべきことがあったから。

MCタイム、話題のスピーチが入るあたり、けして見ててスムーズではなかった。流れが止まったりもしてた。

最初に声出しについての見解を彼女は述べ、それはコロナ禍とはいえ、自然に出てしまう声は構わない、オーディエンス同士で声出しのマナーにつきジャッジするのはやめましょうとの呼びかけだった。でもおれ自身はそこで戸惑ってしまったのも事実だ。

そこは矩(のり)は超えるというには気持ちの問題でなく、医療の問題ではあって、更に後ほどにツイッターで知ることになる同じサマソニの別の場所でHYDEが云ったという不安な人の横で声を出すのはけしていいことじゃないんじゃないかという方がしっくり来るものじゃあったし。おれとしては声は自然に出るだろうけど、そこはある程度はわかってて放って置くことだとは思ってはいて、でもステージ上でそれをパフォーマーが口に出してしまうのは別じゃないかとその時には感じていた。

ただ、そういうおれの気持ちや”ジャッジ”とは別に、リナ・サワヤマ、彼女がそのことに言及するのはそれなりの考えがあってのことだし、海外のフェスではそもそもマスクさえしていない、ある程度の経験則と、それに神経質にジャッジすることで争いや不快な思いになるのはこうして今ここに集まった、集まれることのありがたさを打ち消してしまうことにもなるという思いがあったのかななどと思いもする。

それにこの場合彼女がいちばん伝えたかったのは声出しのことではなくして、互いにジャッジしない、いまここは特別な場所、Safety Zoneというものがもしこの世に可能であるのであれば、そうであっていい、そうであって欲しい、という願いだったんだろうと思う。

それでも実際には気持ちにズレが生じ、言葉が行き場を失い、けしてSafety Zoneなんてこともないのが事実だけれど、でも願いはあってもいい、いつか必ずという真摯な思いがもしミュージシャンの側にあるからこそ伝わって来るものがあるはずで。多少のズレや間違い、それらをおいてもっと大事なものはあるし、愚直に理想を信じることの意義だってある。そういう真摯な思いを持つ人の声をこそおれは聞きたい、聞いてたい。それが聞きたくて、それが聞こえてくることを期待して音楽や映画にいつも臨んでる。そういうんじゃない”わかった風な口”を聞くのなんか見たくもないし、Cool気取りのヤツの言なんか構うこたない。

ステージの合間の短いスピーチで伝えられることは限られてる。文章に起こして採点すれば赤が付くこともあるだろう。言いそびれたり、言い過ぎたりだってある。彼女にすれば英語に比べて慣れない日本語で敢えての、日本で日本語で伝えられる機会を自分は充分に活かさないといけないという思いがあったはずだし。少なくとも根にある言葉をなんとか受け取ることに努力を傾けたい。おれは。それはリナ・サワヤマのためであり、おれのためであり、オーディエンスみんなのため、あらゆる人のためでもあるはずで。

(ところで「彼女」でいいのかな。日本語だと「They」に該当する言葉が現状ないからな。そのへん、わからない)

声出しにのそれに続き、ここからが本題、自身のLGBTQの「B」であることと、日本に於ける同性婚の未だ認められないことへの言及があったのは周知の通り。

おれとしてはそのあたり、わかってない、自分の言葉になっていない、ということもあって、今回に限らず言及するのに躊躇いがあるのだけれど、その戸惑いについては稿を改めて書きたい所存、それはともかく、そのステートメントの中で「バイセクシャル」「日本人」「G7」などのワードが聞いていると引っ掛かってしまいもしたが、それも又単語の問題ではなくして、そこだけ拾い上げても彼女の本意じゃない。

この日本で、そして日本語で、しかも多くの人(マジョリティ)には遠く、馴染みのない話題とも考えられることをなんとか伝えようとの工夫として、この場にいる誰しもに伝わって欲しいとの思いで、ある意味わかりやすく、伝わりやすくを心がけての結果じゃないかとおれは取ってる。それとこの場に彼女自身がパフォーマーではなく、観客としていた可能性を考えて、一観客だったかも知れない、かつてはそうでもあった自分に向けての。

「バイセクシャル」についてはLGBTQのいずれかと敢えて云えば「B」ということで(「パンセクシュアル」ではなくして)(←「パンセクシュアル」をおれは判ってないが)「バイセクシャル」と遣ったのだと思うし、「G7」というのもニュース性のあるわかりやすい表現としてのそれではあるし、「恥ずかしい」というのも「それは恥だ」ということではなく、It's a shame that~なら普通の表現のはず、英語には疎いおれだけれども、民主主義をそれでも第二次大戦後標榜して来た国であるならば、今のこの新しい潮流への理解と参加を求めてもいいはずだし、自身生まれた国のことでもあって、もどかしさがより強くありもするだろうし、すべてのことに言及は出来ない、そして「日本人」という表現も限定や特定の意味じゃなく、日本人以外を省く意図が彼女にあるわけもなく、この地に暮らす人間ということの端的な(単語だけ取れば不十分ではあるけれども)表現として、また自身が日本人であるということとも繋がってはいるのだろうということから出て来た単語ではあるはず。それに「日本人」ということよりも「人間」だってことを強調していたのだ。彼女は。そっちが重点で「日本人」は通過点だろう。

以上はしかし、実はおれ自身がその場で聞いている時にそれぞれの単語に引っ掛かってしまったからこそ、ちゃんと考えたいと思って考えた結果でもある。「バイセクシャル」に関しては、それは事情に疎いおれでも、その単語選びは違うのじゃないかとその場で思ったし、またナショナリズムに殊更に抵抗のあるおれとしては「日本人」というワードには意味合いより先に生理的に引っ掛かってしまう傾向があり、だからステートメントを耳にしながらも躓いて、少しく気持ちが冷めてしまったりもした。

でも彼女自身、ステートメントが機能せず、言葉が伝わらず、或いは自身の言葉の選択に間違いが生じる可能性も測ってはいたに違いない。それでも伝えなきゃ、いま云わなきゃってきっと強く強く考えて考えて当日を迎えたのだと思う。

ステートメントの途中、言葉が出ず、英語で言う場合もあって、聞いててやはり日本語だと上手く言葉が出て来ない場合があるんだなあっていうのは実感した。それでも今の日本で、日本語で言う必要がリナ・サワヤマにはあったんだよ。

コーチェラ2022でだったかな、そこでも彼女はフロリダ州で施行されたというDon't Say Gay法への反対表明として「Say Gay!」という呼びかけをしており、でもそれはパフォーマンスに溶け込んだ流れが中断しないものになっていた。それに比べるとサマソニでのステートメントはぎこちなかったが、ショーの流れに多少の差支えが出てでも、これはやんなきゃってのがあったんだと思う。見てて緊張してるのも分かったし。政治的なメッセージに忌避感の強い日本という場所で、スッと言葉が出て来ない場合もある日本語でやることの困難というのがあってでも。

で、おれとしてはステートメントの後、幾つかの単語に躓いたせいもあってライヴそのものにはそこまでノレなくなり、少しく冷めて見てもいたけど、サマソニ後、YouTubeではしばらくぶりにリナ・サワヤマ検索であれこれ見たりして、結局彼女の事ばかり考えてた。真摯な人には結局胸を打たれる。

それとリナ・サワヤマのステートメント聞いた時、すぐに思い浮かんだのはイ・ランのソウル・ミュージック・アワードでのそれだった。

この後に行われたライブパフォーマンス(『オオカミが現れた』)の最後に手話で「差別禁止法、今」というメッセージを伝えたということもお知らせしておきます。

 

あとライヴ中、彼女、暑いということは幾度か口にしていて、見るからに結構つらそうで、全開になりきれてないかもなあと心配にもなってしまっていた。それもおれがノリきれなかった一因。心配が引っ掛かって。

日本の夏には慣れてないもんな。イギリスよりは暑いでしょ、きっと。蒸し暑い。ステージ上ならば尚更。動きも激しいしね。その後大阪では熱中症ぽくもなったみたいだし。そこもいつものパーフェクトなリナ・サワヤマ・ショーとは違うとこではあったはず。広さ的には屋外のマリンスタジアムでよかったとは思うけど、メッセ方面、マウンテンステージとかがほんとはよかったかもなあ。冷房効いてるし。その方が見てるこちらとしては近いし。スタジアムショーというのはやはり味気なくはある。でかすぎて。

ということで今回どうしても見たかった3組、リンダリンダズ→ビーバドゥービー→リナ・サワヤマの流れは観了。続けてなので忙しかったけど、ビーバドゥービーの冒頭部分以外は被ることなく見れてよかった。わぁい。

で、あとはわりかしのんびり行こうと決めてたんで、一度メッセへ戻る。

雑誌「トラベシア」Vol.6 いしあい号(仮)

10月17日(日)16:00~
西荻窪の本屋ロカンタンで「トラベシア」Vol.6の発売記念イヴェントがあった。

www.roquentin.tokyo

 「トラベシア」、今回はおれがテーマ。おまえ誰だよ???ってのがミソとも云える特集。
 これはこれでおもしろいじゃないのさ。「いしあいひでひこ」を材料に鈴木並木さんが雑誌を組み立てているという。編集の妙。

 インターネット歴四半世紀弱、一度としてハネたことのないわたくしなので、ネット内有名人でさえない。イプシロン・ブロガー、イプシロン・ツイッタラー。
 しかも若くもないしな。松本清張のデビューが47歳というのはいつも考えることなので、ヤングばかりが脳じゃねえ。まあ、冥土の土産といってはありきたり、おかえりなさい、ご主人さま、お好きなホレンディッシェ・カカオシュトゥーベのバウムクーヘンをご用意しております、、、この先つづかねぇ……

 閑話休題。

 当日は生憎の雨。傘持って家を出る。でも自宅からはまず所沢までクルマで。駅ビルたるグランエミオの駐車場にイン。そこから西武線で所沢→東村山→国分寺→三鷹→西荻窪。待ち合わせは14:00。ついたのは13:00ぐらいだったっけか。あらかじめめっけておいたドトールへ。ミラノサンド、たしかAとアメリカン(ホット)。当日はちょっと冷えたかな。

 14:00、鈴木並木さん、そしてなびすこさんと西荻窪駅前で落ち合う。さてそこから居酒屋へ周辺に詳しいなびすこさんの案内で移動。イヴェント前の打ち合わせ。ここでいきなり話は盛り上がり、なんかもうこれでいいんじゃないかと云うのを、なんせなびすこさんのおれに関する調査の行き届き、そこからの話の流れがよく、初顔合わせとはいえ、すでにたのしくなっており、けどまあイヴェント前に出し切っちゃってもというのもあり、ブレーキも効かせなきゃなんない、とはいえ、いざイヴェントとなったら、更に盛り上がったんで心配無用。

 15時には本屋ロカンタンへ。店主の萩野亮さんともここで初顔合わせ。はじめまして。
 西荻窪自体、今まで来たことがあったやナシや。憶えがない。いろんなことの覚えはとうにないけれど。まさかの痴気情事の隣とはこの日まで全く気がつかぬまま。
 高円寺。これは覚えがある。ジンタ見るため、今はなきペンギンハウスへ幾度も足を運んだ。もう20年近く前だ。うそみたい。ライヴ終わりに打ち上げなどあり、居酒屋を出てのち高円寺駅前でみなでぐるりと輪になっておしゃべりなどしたような記憶があって、40歳近いおれの遅れてきた青春じゃあった。おお、歳月よ、あこがれよ。
 阿佐ヶ谷。これも覚えはある。大学時代、バイト先で知り合った、友達というには少し精神的距離はあったかな、けど交流はあった、その彼が阿佐ヶ谷が地元で幾度か行くこともあったし、大学は出た後、バレルハウスというソウルバーへは彼と何度か行った。当時飲酒の習慣はなく、けどズブロッカとか飲んだりしてた。流れる音楽はもっぱらにソウル・ミュージックなわけで、そういう点では居心地はよかった。その彼と最後に会ったのはいつだったか、池袋西口公園でカネ貸してくれと云われ、3万円ぐらい渡したんじゃなかったか、それが最後だ。いまどうしてるのか。
 てな感じで西荻窪に近いあたりにはそれなりに用もあったりもしたけれど、西荻窪はほんと行かなかったなあ。カフェ巡りをよくしていた時分ならば行っててもよかったのにね。なんか行くことはなかった。

 そんなこんなで16:00を迎え、店内にはお客さんも揃い、配信の準備も完了。スタート。

 なびすこさんのリードで幕を開ける。本屋ロカンタンのある西荻窪、そして吉祥寺あたりの昔々の様子を映画のロケシーンなどでチェック。用意周到。「俺たちの旅」など、おれも知ってる、というか、世代的にドンピシャなものなど出て、気分はすっかり60年代~70年代へ。
 それらが済むといよいよ「いしあいひでひこ」を巡る過去への旅。
 まずは幼少時代、大山(板橋区)。これがおれの提出した数葉の写真などを元に、実に綿密な調査。びっくりだよ。えええええ???って感じで。知りたかった、隣の豆腐屋の幼馴染の女の子、といって記憶はほぼない、その彼女のことはさすがにわからなかったけど、豆腐屋のその後などが地図帳で確認出来たり。もちろん、おれの両親の営んでいたラーメン屋「本陣」の場所なども特定。現在は道路拡張に伴い、その周辺の店舗、建物はなく、道路と化していることなどもわかった。しかもピンポイントで「大山西町」の町史が発行されているという奇跡。そしてそれを資料としてここに出すなびすこさんの調査能力。すげかった。おれは喜んだね。NHKのファミリーヒストリー並みの調査力。感嘆。

 次は保谷時代。たぶん小学校入学少し前から小3の夏休み前までおれが住んでいたところ。当時の友達の行方なども知ることが出来、なんか安心したものがあった。生きててよかった。長生きは勉強になる。
 小2からの栄小学校についても知ることが出来、しかもやたらアルミで出来た最新式プールが印象的だった理由もわかったりしたのだった。栄小学校自体、当時出来たばかりだったけど、プールは更にその後、工事も含めて当時のおれは見てたわけだよ。そりゃ小学生にはいちばん印象に残る。そして「栄富士」!!!これだよ、おれが求めていたものは。これこれこれ。プールを作る際に出た土を積んで山状にしたもの。この栄富士で、やたら遊んだんだよ。足も脚もズボンも泥でめちゃくちゃに汚しながら。ダンボールで滑り降りたりなんかしてた。すごい遊んだ。当時は汚れてんのなんか気にしやしない。きっと汚いママ授業受けたりなんかしてたに違いねえ。

 いやいやいや、なびすこさんの調査能力のすごさよ。ほんとマジで。知りたかったことがあれこれ知れてほんとよかったです。ありがとうございました。

 イヴェントの後には参加者数名で沖縄料理の居酒屋へ。ここでまた歓談。たのしかったな。さて、ここでは次回のイヴェント、11月28日(日)、同じく本屋ロカンタン、そこでご一緒する平山亜佐子さんと、次回イヴェントの打ち合わせも。はてなダイアリー他、インターネットの昔を振り返る(?)、みたいな感じでどうかと。
 まさかの2回目。諸姉諸兄、たのしみにしてくれたまえ。

「問題の女 本荘幽蘭伝」(平山亜佐子)

 でもって解散したのは9時?10時?もう大分寒かった。雨は上がってた。新宿まで暫く一緒に行く人数名、そして新宿からはひとり西武新宿線で所沢へ。人気(ひとけ)のない駐車場。夜の屋上。わるくなかった。ちょっと周りを見渡して軽くムーヴィーも撮った。こんな日はいいな。してからクルマで一路帰宅へ。日曜夜の道路は当然空いてて、たのしく過ごした後の夜の運転、家に着くまでのふうわりと浮いた時間。
 うち帰ってからはすぐに髭剃って風呂入って歯磨きしてデンタルフロスして、寝るのは遅くはなるけど、一通り済ましてから寝た方が翌日がラク。おやすみなさい。

ドライブ・マイ・カー

「ドライブ・マイ・カー」(監督:濱口竜介)

 季節がいつとか何月だとかわかってなくて見てたんだけど、最後、雪の積もった北海道へいきなり行くけど、てことは既にスタッドレスタイヤにしてたってこと?履き替えてるシーンなんかないし、そんな余裕もなく、とにかく現地を目指すみたいな風だったから、始めっからスタッドレスだったってことになると思うけど、あれ、最後の北海道行きは何月の設定?どっかカレンダーとかでわかるようになってたかな。てか、冬だったっけ?そもそも。そこまで気づいて見てないので、見返さないとそこはわからない。

 「ドライブ・マイ・カー」はタイトル通り、クルマに乗り続ける映画だが、ドライブといえば、おれは、特に成人前までは、出かけるとなると父親のクルマに乗ることが多く、父母、おれと妹の四人、ドライバーは父親。
 父親は仕事で必要になり、40歳ぐらいで免許取って運転するようになったが、運転はほんと上手かった。同乗していてなんの不安もなかった。
 おれは25歳ぐらいで免許を取り、40歳まではペーパードライバーで、そこから運転するうようになったので、運転開始は父親と同じだが、今は毎日運転しているのに、未だに車線変更は怖く、首都高速なんか無理なレベル。その点父親は道もよく知ってたし、首都高速も迷いなく運転してた。
 父親は2015年に死んじまったが、最近、「お父さんのクルマに乗りたいなあ」と思ってたりする。

 三浦透子、上手いドライバーに見えるように相当練習したのだとは思うが、そこらへん、知りたい。そんな運転テクニックをひけらかすようなシーンもなかったから、映画見てても、彼女の運転が上手いのかどうかはわかんないんだけどさ。運転上手い人が見たら、お、みたいな感心ポイントがあんのかな。
 (その後舞台挨拶とか見たら、彼女、これの前は免許も持ってなかったという)

 映画見てて時間が経ってく設定の場合、無精髭がいつも気になる。おれは朝剃っても夕方には伸びて来てしまって、触れば感触があるくらいにはなる、比較的ヒゲの濃い方だから、映画見ててもヒゲには注視してしまう。時間経ってる割には口周り、剃ったみたいにキレイじゃね?とか。明らかに徹夜しましたって設定だと、むしろわざとらしく無精髭が伸びてたりしがちで、それはこの映画でも最後の北海道行きでは時間が経つに連れて西島秀俊のヒゲは伸びてくる。でもそこ以外はどうだったかな?って少し気になってる。これも見返さないとわからないけど。こういうのは演出とかより、むしろ役者の方で気がつきそうだな。「監督、ここは無精髭伸びてんじゃないですか?時間経過的に」とか。役作りの過程で気がつきそう。

 三浦透子の母親が多重人格的な症状を呈していたと彼女の口から最後語られるが、病気をドラマ内で使う場合は便利なそれとしての利用になりがちで、ここでもその気配を感じて、気になった。特に精神病の扱いは以前とは違い、軽々とは今は使えなくなってる。昔はすごい安易にあったけどね。あと、記憶喪失はありがち。まあ記憶喪失の方は、またこれかよとその安易さには定評があるので、ばからしくも流せたりはするけど、多重人格っていうのはある種便利過ぎるんだよな。実際にあるということとは別にドラマの中でそれを扱う場合は、見ているこちらがそこで引っ掛からない工夫が必要だと思うし、その工夫はもちろんすごくむずかしい。ここでは少し安易に見えた。原作は読んでないんだけど、短編で、現実から少し離れた、一種寓話として描かれているのならば、まだ納得しやすいとは思うんだけど、現実的な設定で、生身の人間が演じていると、気になり度合いが上がる。それに当然、倫理的な問題としても、これでいいのか?と見ている人間には疑問が湧いてしまう。

 濱口作品での女性の表象には以前から疑問があって「ドライブ・マイ・カー」でもそれは相変わらずだった。

 西島秀俊の妻(霧島れいか)がオーガスムと共に物語を紡ぎ出す、って、それって巫女ってこと?女性が神秘的な存在として描かれてやしないか。そこが気になる。大江健三郎の「個人的な体験」で主人公の鳥(バード)は「火見子」という妻ではない女と交合を繰り返して、やがて”救われる”のだけれども(大昔読んだんで、記憶は曖昧じゃあるけどさ)、「火見子」なんて名前が如何にもだけど、謂わば巫女的な存在としての女性であって、それにインスピレーションを得てるんじゃないかと考えてる。原作は村上春樹で、村上春樹が大江健三郎に影響受けててもなんの不思議も(世代的に)ないだろうし。
 「火見子」には「ミコ(巫女)」が入っているし、女王として、そして巫女として神と通じている。
 「個人的な体験」だけじゃなくて、その(パクリ)元になったジョン・アップダイクの「走れウサギ」の影響だとしてもアメリカ文学大好きな村上春樹ならもちろん十分に有り得るだろうし。「走れウサギ」はこれまた大昔に読んで、なんの記憶もないんだけどさ。ともかく。どらちらにせよ、「女(という神秘的な存在)に救われる」話ってことではあって、そういう「罪と罰」のソーニャ問題というのは、主に男たちによって紡がれて来た近代文学(よくわかってないけど、まあこの単語遣わせて)ってやつにはつきもので、昨今はそのへん、そういうのどうなの?って流れにはなって来てるとは思い、おれもそこに乗っかってて、いまこんなこと書いてる。
 「ドライブ・マイ・カー」、主人公の妻は物語の割と前半で死んでしまうけど、テープの声としてずっとまだ生きている夫には語りかけ続けていて、その棒読みのセリフの繰り返しとの応酬の中で、主人公の男は”救われて”ゆく。女が生命を賭して、死んだ後も巫女としての語りを通して男を癒やしていく。なんて都合のいい。女を殺してまで。

 「ドライブ・マイ・カー」では女ばかり(娘、妻、三浦透子の母親)死ぬ。男は匿名の男しか死なない。

 衣装が全体的によかったな。スタイリストが誰かクレジット見ようとしたら、見逃してしまった…

 三浦透子が野暮ったいカッコで、フェミニンな魅力、性的なそれを消してる、抑えてるのが、却って、美人の逆をやってるだけ、金持ちの反対は乞食みたいな、そういう単純さとして見えてしまい、それは美人好きが逆に見て取れるみたいになってない?って思うの。そうじゃなくて「ふつう」はないの?って。

 走るクルマを後ろから見ている場面、カメラを積んだクルマが後から追いかけていると見ていて必ず意識する。もう一台走ってるなと。それがどうこうっていうんじゃないんだけど、映画を見ながら、これ、撮影してるクルーがいるなあと、まま思うことがあり、映画って、なんかそういうのも込みだよね。見ながらお話に没頭してるのと、客観的に撮影方法なんか考えながら見てるのと。

 三浦透子には北海道への道すがら、どこかで顔を洗って欲しかった。西島秀俊は無精髭が伸びることで、長時間の旅を見て取れたけど、若いとは言っても彼女も顔ぐらい洗ってさっぱりはしたくなるはずだし、そうせずにはいられないはずだし、彼女の顔の変化をヒゲなんか生えてはいないので感じられず、けど一方、そうもさっぱりした顔をしていられるのは途中で顔を洗ったからだろうと考えてしまったので。人は顔を洗う。歯を磨く。トイレへ行く。

 映画を撮る映画はいっぱいあるし、「ドライブ・マイ・カー」みたく演劇を作る映画ってジャンルもあるよな。濱口監督は、それが好きみたいだし。演劇がいつも出てくる。

 乳首を映さないのならベッドシーン自体、よせばいいのにっていつも思っちゃう。「サイコ」じゃないんだから、なんで上を脱がない?って毎回気になる。脱いでも頑なに乳首が映らないように撮っていて、わざとらしさに毎回戸惑う。そうせざるを得ない大人の事情とかも考えてしまい、悪い意味で現実に引き戻される。

 ベッドシーン、セックスの描写って、ほんと難しいなって思う。見ててすんなり入ってくる場合は少ない。滅多にない。見ていて恥ずかしくなったり、早く終わんねえかなあって思うこと度々。じゃあどういう場合に納得出来るのかというと、それはそれでわかんないや。何が決め手なんだろ?終始セックスばかりしている「愛のコリーダ」はめちゃくちゃすんなりと入ってきた。とにかく毎度、このベッドシーン問題を考える時は「愛のコリーダ」のこと思い出してる。「愛のコリーダ」はあんなにいいのに。でもなんでそうなんだろう?何がだめといいの決め手なんだろう?ってわかったことがない。
 「ドライブ・マイ・カー」では西島秀俊と霧島れいかのそれがあり、重要な事として描かれてもいるけど、でも見ててもやもやはした。乳首の映る映らないもあったけど、それを措いても。象徴的なセックス、意味のあるセックスとして、ここではあるわけだけど、でも見ていてすんなりとは入っては来なかった。意味のある場面としてのセックス描写だから、わざとらしさを感じたというのはまずあるか。他にはなんだろな?
 それと映画でセックスが描かれる場合、AVではないので、そのことばかり長々と映してるわけにもいかないし、クライマックスを描写せざるを得ないというのもあるとはいえ、挿れるの早過ぎ!っていっつも思う。え?もう挿入しちゃうの?って。映画で前戯、後戯とかいちいちやってたら、それだけで映画終わっちゃうからしょうがないんだけどさ。単にセックスしてんの見せられても退屈だし。セックスはしてる当人たちはいいけど、傍から見れば、退屈な仕儀には違いない。エロビデオを見ていて興奮するのは自身の内に性的現象が見ているものに喚起されて生じているだけで、ビデオそのものに面白さがあるのとは違う。オナニーでもセックスでもそれ自体に興奮があり、それと映画を見ている興奮は別の話だ。なので当人に起きている興奮でもない他人のスクリーン上のセックスが”映画として”興奮を呼び起こすようにするのは至難の業も当然至極。本来退屈な筈の他人の生理的興奮を映画としての魅力へと変換するには何をどうしたらいいのか。おれにわかるはずもない。そして大概の映画監督にもそれは理解できない。
 いや、映画としての興奮が見ている側に起きる時、それは映画内の人物たちの感情の交歓、感情の機微、気持ちの遣り取り、それに感情が引き摺られるからか。そうか。だから映画でのファックシーンが見られるものになるには身体の絡み合いじゃなくて、気持ちの絡み合いを観客に届くように見せればいいのか。なある。もちろん、それ自体が難しいわけだけどさ。まあね。それが簡単に出来んのならば、だぁれも苦労はしない。

 最後の三浦透子の乗ってるSAABは西島秀俊から譲り受けたものなの?まさか二人が結婚とかしてないよね?だとしたら、やだなあと思ったんだけど、なんか見てればわかるようになってた?
 後から気がついたけど、SAABに載せてる犬はたぶんあの夫婦の犬で、ということは犬と、そしてクルマもそれぞれに譲り受けたものなんだよな。というか犬に関しては、もしかするとあの夫婦と共に、あるいは近くに暮らし、演劇関係のアシスタントとかしており、散歩や何かで連れ出すことがあるのかも知れない。
 ただ、北海道の彼女の埋もれた実家を間近に見下ろす雪の上での三浦透子と西島秀俊の抱擁は長く、だらだらとして感じられ、性的な感じも感じられて、見ててもやもやしちゃったんだよな。なんかもっとあっさりとハグに留めるか、あるいは触れ合うことなく、けれど気持ちの繋がりを暗示するような何かであった方がよかったな。べたべたしてたし、なにより時間が長かった。
 あの雪に埋もれた三浦透子の実家は、あれ、セットとしてああいうふうに作ったのかな?それともCG?美術として、あれを作るのは大変だろうなと見ながら思ってて。まして雪が被ってるわけだし。雪の降る前に屋根とかを用意してとかって、それも考えづらいなって思って。ロケーションしててちょうどいいのがあったとか?そんなわけないか。あったとしても撮影許可とか考えるとね。
 二人の抱擁の後に無人のSAABが映るのだけれど、そのクルマの下には雪がなく、それがどういうことなのかわからなかった。元々乗りつけた時点では雪の上に止めてた筈だし、しかし、ああしてクルマの下だけ雪がないということはその後ある程度以上の時間、そこに止め、その間、雪が降り積もったということではあるし。

 三浦透子、何読んでたのかな。文庫本。

 なぜ劇中、CDではなくレコードで、CDでもデータでもなくカセットテープだったのか。車中がカセットだったのはSAABが古くて、搭載してるのが昔のオーディオ装置だったからってこと?まあ自宅でもわざわざレコード流してるわけだし、そういうアナログ趣味ってことじゃあるのか。そういういやらしさは村上春樹原作だから、やはりなのか。
 考えてみれば、車中、テープで亡き妻の声が流れ、夫である西島秀俊はその声に呼応して芝居のセリフを声に出し、そして夫婦二人の亡き子供と同い年の女性がそこにいるので、誰も望まない、歪な形で親子が揃ってる、ドライバーの彼女は滅多に喋らないとはいえ、夫婦、親子で会話してるとも云える。

 映画では劇中、韓国手話が使われることがあるが、韓国手話といえば、おれにはイ・ランの「イムジン河」のMVを想起する。しかも彼女のコンサートでは日本語字幕で歌詞がスクリーンに映し出されたりもしており、その点でも「ドライブ・マイ・カー」とも少し被る。要は双方共に言語の違う相手とのコミュニケーションを生で行う方法を採っているということ。
 

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 演技そのものとしてはオーディション場面のそれが圧倒的だったよね。岡田(将生)くんも、パク・ユリム(手話で演技をする女性)も。パク・ユリム、ほんと素晴らしかった。

 おれは岡田(将生)くんがとにかく好きなので、彼が出てるだけで、ああ岡田くんだあと嬉しくなってしまうの。だからなんだと云われても困るよ。
 「昭和元禄落語心中」の岡田くん、ほんと素晴らしかったよね。ああ。

 吉田大八が役者として出てたはずだけど、クレジットで見た、どこにいたの?わかんなかった。おれが彼氏の顔を把握してやしないんだから、あたりまえっちゃあたりまえだけど。

 メタファーや思わせぶりの洪水。広島。土砂災害。子供の死。子供と同い年のドライバー。タバコ。レコード。緑内障。多摩ナンバー。ヤツメウナギ。繰り返される、セリフのやり取り。役者には敢えてのセリフの棒読みを演出家(西島秀俊)は課しているけど、途中までの三浦透子も棒読み的な言葉しか発しなかったこと。手話。ゴドーを待ちながら。ワーニャ伯父さん。盗撮。犬。最後、三浦透子はスーパーで食料品を買い、車内で犬と戯れるが、食事を拒否し、笑顔を拒否していた彼女が最後にそうなるということ。冒頭、霧島れいかの顔は暗く、映らないが、その後彼女の死の後も、彼女はテープの声のみで顔を持たないこと。妻亡き後、夫はスマホで撮影した動画を見たりはしない。死者との会話。映画内、ずっと晴れていたが、最後、北海道行きの途上でようやく雨は降り、北海道に着くと降ってはいない、積もった雪。三浦透子は最後にマスク姿。等々、とにかくなんかしら意味のあるような要素の目白押しで、入れ過ぎだろうとは思うし、それ以上に、なんか頭で考えたアイディアを入れてる、手が見える感じもしてしまう。

 結局、「女に救われる男の話」で、今回、脚本家は男性二人で、これが女性が入っていたらどうなっていたかとかなあとかぼんやりと思う。女が入ってれば、それで済むってことでもないんだけどさ、なんつかともかくオルタナティヴな視点てのが欲しいわけですよ。ないものねだり。

 妻が脚本家で、深夜ドラマの脚本として、みたいなのがあったけど、濱口監督の深夜ドラマ、見てみたい。テレ東が待ってるよ!

 「寝ても覚めても」、それに今回の作品でもメジャーな俳優を使うことについても考える。インディーに映画を撮ってた時はメジャーな俳優は出て来ないわけで、今回だと、特に西島秀俊がいて。そういうことでの同じ監督での作品の変化みたいなもの。これは今後考える。(考えるわけじゃないな、なんとなくそのうちいいアイディア思いつかないかなあと)
 あと「ドライブ・マイ・カー」だと演劇祭の関係者の2人が素人(?)演技で、それこそは棒読みで、そこらへんの異化効果は監督は意識してないはずがないわけで、そこもなんか気になったので。メジャーな人と一般には知られない人の対置。

 ラスト、三浦透子が観客に向かい手話で語りかけたならよかったんじゃないか?なんて云うのかはわからないが。「よかったら乗りませんか。運転は私がするので」そして走り去る赤いSAAB。

冥土の旅の一里塚

今日は休み。
ゆうべは11時くらいには寝て、5時くらいには覚醒して、それから6時半過ぎまではなんとか布団の中で過ごした。どうしても寝ていられない。二度寝が出来ない。

起きて歯磨き、髭剃り済まして、ゆうべの残りの酢豚をチンしてあっためてそれ食って、それだけだと足りないので8枚切りの食パンに溶けるチーズ載っけてトーストして食った。コーヒー飲んでたっけな。そんときは。ゴールドブレンド。
そうだ。ゴミ捨ても行った。今日のはビン缶。
あと飯食い始めてちょっとしてから、そういや洗濯と思い、洗濯機を回し始めた。下着とかタオル類、仕事着や今も着ている部屋着、それら、嵩張るので2回に分けてスピードで。その後、シーツと上掛けのカヴァーも。最近はずっと週に1回はシーツ&上掛けカヴァー洗ってる。こんなことは前はなかった。シーツなんて、半年ぐらいそのままじゃなかったか。今はそれが週1。習慣は変わる。これらも洗濯はスピードで。
ちなみに寝るときはもう枕なしがずっと。いつだっけ?2、3年前?もっと前?よく憶えてないけど、左手に痺れがあって、それで試しに枕外して寝てみたら治ったんだよな。要はストレートネック的なもんじゃないかとは思うんだけど。なんか首あたりの神経かなにか。それ以来ずっと枕なし。

シーツも済むと毛布。毛布は無印良品の薄いやつで、洗濯機で洗える。これだけは「毛布」モードで。それで洗濯機にゴー掛けてから、もう出かける時間なんで家を出る。歯医者。今日は10時からの予約。施術時間、約1.0時間。ここが特にそうなのか、それとも保険診療外だからなのか、毎回、1時間ぐらいは掛けてる。あるいは30分。2週に1回ぐらいの割合で去年の8月から通ってる。一番長いときで2時間コースもあった。今までこんなに丁寧に歯科治療したことはない。今回は今までになく本格的。被せ物もセラミックにしてる。今後、老後に掛けての準備である。

歯医者済ますと一旦家へ帰り、先ほどの洗濯物(毛布も含む)を車へ積込み、コインランドリーへ。24分コースで乾かす。そして帰宅。サッポロ一番みそラーメンと、これまた今朝と同じく酢豚の残りで昼食。メシ食った後はしばらくベッドでだらだら。ちょうど13時になると皮膚科の当日予約。

そして2時半過ぎに家を出て当該皮膚科へ。当日7番。といって、本来的に予約してる人が優先で、おれのはあくまで「当日」予約だ。一通り終わると4時位。そこからショッピングモールまで行き本屋へ。「キネマ旬報」。杉野希妃(すぎのきき)のインタビュー目当て。

そして行ったことない、出る前にグーグルマップ「ケーキ屋」で調べといたケーキ屋へ行き、ケーキを幾つか購入。1個食っただけだが中々美味かった。
そう、今日はおれの誕生日。自分にご褒美、ハッピィ・バースデー。
58歳。
今は日常的にケーキが食えてしまうんで、なんかいいかとは思ったがこれもイベントの一種とは思い、行ったことないケーキ屋でケーキ買った。

自宅方面へ戻り、薬局へ行き、皮膚科関係のクスリを入手。保湿剤と飲み薬。そして帰宅。風呂をざっと洗い、スイッチを押し、今度は近所のスーパーまで。よなよなエールと牛乳、納豆、ヨーグルトなど。最近、飲酒はたまに。今日は誕生日ということでのよなよなエール。今日は旨く飲めた。ビールっても日により、味が違うよね。味が違うというか、美味いと感じる日と、無理に冷たいの、今は特に寒いし、飲み込んでる気しかしない日と。今日は幸いおいしく感じられるフェーズだった。

夕飯は味の素の餃子と納豆とわかめの味噌汁と、おれが昨日買った冷凍のイカフライと、出来合いのもずく酢と。それとよなよなエール。(夕飯はいつも母親が用意)
食事途中で母親が姿を消し、どうしたかと思うとトイレ。そしておなかが痛くてとか云う。ちょっと心配したが、医者はまだやってるし、いつもの内科は近所だし、おれはビール入れてしまい送ってけはせんが、母親が歩いて行ける距離、行くよう促して、病院へ。帰宅までの間、おれはアトロク聞きながらメシを食い終わり片付け、母親が中途な残し方だったが、腹痛(はらいた)では帰宅したとて食うまいと思い、それらも片付け、燃えるゴミがもういっぱいで、まとめて、新しいゴミ袋に替え、それからケーキ(ティラミス)とコーヒーを用意。食ったり写真撮ったりして母親の帰宅を待った。40分ぐらいで、クスリも調達しての帰宅。早いでしょ?病院が近いって、いい。聞くと2、3日前からちょっとおなかの調子がおかしく、今日の昼間も調子悪かったらしい。下痢。医者にも云われたらしいが、今日の昼間のうちにでも行けばよかったのに、なんか様子見をしちまったらしい。まあ、うちの母親は割とすぐに病院行く方で、そこはいいんだが。
で、まあ母親の姿見て安心したんで、おれもダイニングを去り、自室へ。いまはこれ書いてる。TVでYouTubeで「マイ・フェイヴァリット・シングス」(コルトレーンね)を流してる。

今日はそういや、クルマ流してる時、ラジオ(山崎怜奈の「誰かに話したかったこと。」)から斉藤和義の「歩いて帰ろう」が掛かり、ちょっと思い出す事などあり、少しく胸が痛くなった。時は経つ。おれはもう58歳だもんな。

あと、そう、皮膚科行く時、対向車線のクルマが左へハンドル切り過ぎたのか、フロントを縁石(?)か何かにいきなりぶつけ、割とスピード出てた、自損事故を目の前で見てビックリした。運転手は普通に動けてたし、おれの方見てごめんみたいな挨拶したくらいだったが、そのクルマのすぐ後を走ってた車の中の人はビックリした顔してた。そりゃ驚くよな、突然のことには。ギリ、ブレーキ踏んでぶつかんなかった。結果、事故的には大した事にはならんかったが、やはりクルマを人が運転するのって無理ある。怖い。いつでも。