ドライブ・マイ・カー
「ドライブ・マイ・カー」(監督:濱口竜介)
季節がいつとか何月だとかわかってなくて見てたんだけど、最後、雪の積もった北海道へいきなり行くけど、てことは既にスタッドレスタイヤにしてたってこと?履き替えてるシーンなんかないし、そんな余裕もなく、とにかく現地を目指すみたいな風だったから、始めっからスタッドレスだったってことになると思うけど、あれ、最後の北海道行きは何月の設定?どっかカレンダーとかでわかるようになってたかな。てか、冬だったっけ?そもそも。そこまで気づいて見てないので、見返さないとそこはわからない。
「ドライブ・マイ・カー」はタイトル通り、クルマに乗り続ける映画だが、ドライブといえば、おれは、特に成人前までは、出かけるとなると父親のクルマに乗ることが多く、父母、おれと妹の四人、ドライバーは父親。
父親は仕事で必要になり、40歳ぐらいで免許取って運転するようになったが、運転はほんと上手かった。同乗していてなんの不安もなかった。
おれは25歳ぐらいで免許を取り、40歳まではペーパードライバーで、そこから運転するうようになったので、運転開始は父親と同じだが、今は毎日運転しているのに、未だに車線変更は怖く、首都高速なんか無理なレベル。その点父親は道もよく知ってたし、首都高速も迷いなく運転してた。
父親は2015年に死んじまったが、最近、「お父さんのクルマに乗りたいなあ」と思ってたりする。
三浦透子、上手いドライバーに見えるように相当練習したのだとは思うが、そこらへん、知りたい。そんな運転テクニックをひけらかすようなシーンもなかったから、映画見てても、彼女の運転が上手いのかどうかはわかんないんだけどさ。運転上手い人が見たら、お、みたいな感心ポイントがあんのかな。
(その後舞台挨拶とか見たら、彼女、これの前は免許も持ってなかったという)
映画見てて時間が経ってく設定の場合、無精髭がいつも気になる。おれは朝剃っても夕方には伸びて来てしまって、触れば感触があるくらいにはなる、比較的ヒゲの濃い方だから、映画見ててもヒゲには注視してしまう。時間経ってる割には口周り、剃ったみたいにキレイじゃね?とか。明らかに徹夜しましたって設定だと、むしろわざとらしく無精髭が伸びてたりしがちで、それはこの映画でも最後の北海道行きでは時間が経つに連れて西島秀俊のヒゲは伸びてくる。でもそこ以外はどうだったかな?って少し気になってる。これも見返さないとわからないけど。こういうのは演出とかより、むしろ役者の方で気がつきそうだな。「監督、ここは無精髭伸びてんじゃないですか?時間経過的に」とか。役作りの過程で気がつきそう。
三浦透子の母親が多重人格的な症状を呈していたと彼女の口から最後語られるが、病気をドラマ内で使う場合は便利なそれとしての利用になりがちで、ここでもその気配を感じて、気になった。特に精神病の扱いは以前とは違い、軽々とは今は使えなくなってる。昔はすごい安易にあったけどね。あと、記憶喪失はありがち。まあ記憶喪失の方は、またこれかよとその安易さには定評があるので、ばからしくも流せたりはするけど、多重人格っていうのはある種便利過ぎるんだよな。実際にあるということとは別にドラマの中でそれを扱う場合は、見ているこちらがそこで引っ掛からない工夫が必要だと思うし、その工夫はもちろんすごくむずかしい。ここでは少し安易に見えた。原作は読んでないんだけど、短編で、現実から少し離れた、一種寓話として描かれているのならば、まだ納得しやすいとは思うんだけど、現実的な設定で、生身の人間が演じていると、気になり度合いが上がる。それに当然、倫理的な問題としても、これでいいのか?と見ている人間には疑問が湧いてしまう。
濱口作品での女性の表象には以前から疑問があって「ドライブ・マイ・カー」でもそれは相変わらずだった。
西島秀俊の妻(霧島れいか)がオーガスムと共に物語を紡ぎ出す、って、それって巫女ってこと?女性が神秘的な存在として描かれてやしないか。そこが気になる。大江健三郎の「個人的な体験」で主人公の鳥(バード)は「火見子」という妻ではない女と交合を繰り返して、やがて”救われる”のだけれども(大昔読んだんで、記憶は曖昧じゃあるけどさ)、「火見子」なんて名前が如何にもだけど、謂わば巫女的な存在としての女性であって、それにインスピレーションを得てるんじゃないかと考えてる。原作は村上春樹で、村上春樹が大江健三郎に影響受けててもなんの不思議も(世代的に)ないだろうし。
「火見子」には「ミコ(巫女)」が入っているし、女王として、そして巫女として神と通じている。
「個人的な体験」だけじゃなくて、その(パクリ)元になったジョン・アップダイクの「走れウサギ」の影響だとしてもアメリカ文学大好きな村上春樹ならもちろん十分に有り得るだろうし。「走れウサギ」はこれまた大昔に読んで、なんの記憶もないんだけどさ。ともかく。どらちらにせよ、「女(という神秘的な存在)に救われる」話ってことではあって、そういう「罪と罰」のソーニャ問題というのは、主に男たちによって紡がれて来た近代文学(よくわかってないけど、まあこの単語遣わせて)ってやつにはつきもので、昨今はそのへん、そういうのどうなの?って流れにはなって来てるとは思い、おれもそこに乗っかってて、いまこんなこと書いてる。
「ドライブ・マイ・カー」、主人公の妻は物語の割と前半で死んでしまうけど、テープの声としてずっとまだ生きている夫には語りかけ続けていて、その棒読みのセリフの繰り返しとの応酬の中で、主人公の男は”救われて”ゆく。女が生命を賭して、死んだ後も巫女としての語りを通して男を癒やしていく。なんて都合のいい。女を殺してまで。
「ドライブ・マイ・カー」では女ばかり(娘、妻、三浦透子の母親)死ぬ。男は匿名の男しか死なない。
衣装が全体的によかったな。スタイリストが誰かクレジット見ようとしたら、見逃してしまった…
三浦透子が野暮ったいカッコで、フェミニンな魅力、性的なそれを消してる、抑えてるのが、却って、美人の逆をやってるだけ、金持ちの反対は乞食みたいな、そういう単純さとして見えてしまい、それは美人好きが逆に見て取れるみたいになってない?って思うの。そうじゃなくて「ふつう」はないの?って。
走るクルマを後ろから見ている場面、カメラを積んだクルマが後から追いかけていると見ていて必ず意識する。もう一台走ってるなと。それがどうこうっていうんじゃないんだけど、映画を見ながら、これ、撮影してるクルーがいるなあと、まま思うことがあり、映画って、なんかそういうのも込みだよね。見ながらお話に没頭してるのと、客観的に撮影方法なんか考えながら見てるのと。
三浦透子には北海道への道すがら、どこかで顔を洗って欲しかった。西島秀俊は無精髭が伸びることで、長時間の旅を見て取れたけど、若いとは言っても彼女も顔ぐらい洗ってさっぱりはしたくなるはずだし、そうせずにはいられないはずだし、彼女の顔の変化をヒゲなんか生えてはいないので感じられず、けど一方、そうもさっぱりした顔をしていられるのは途中で顔を洗ったからだろうと考えてしまったので。人は顔を洗う。歯を磨く。トイレへ行く。
映画を撮る映画はいっぱいあるし、「ドライブ・マイ・カー」みたく演劇を作る映画ってジャンルもあるよな。濱口監督は、それが好きみたいだし。演劇がいつも出てくる。
乳首を映さないのならベッドシーン自体、よせばいいのにっていつも思っちゃう。「サイコ」じゃないんだから、なんで上を脱がない?って毎回気になる。脱いでも頑なに乳首が映らないように撮っていて、わざとらしさに毎回戸惑う。そうせざるを得ない大人の事情とかも考えてしまい、悪い意味で現実に引き戻される。
ベッドシーン、セックスの描写って、ほんと難しいなって思う。見ててすんなり入ってくる場合は少ない。滅多にない。見ていて恥ずかしくなったり、早く終わんねえかなあって思うこと度々。じゃあどういう場合に納得出来るのかというと、それはそれでわかんないや。何が決め手なんだろ?終始セックスばかりしている「愛のコリーダ」はめちゃくちゃすんなりと入ってきた。とにかく毎度、このベッドシーン問題を考える時は「愛のコリーダ」のこと思い出してる。「愛のコリーダ」はあんなにいいのに。でもなんでそうなんだろう?何がだめといいの決め手なんだろう?ってわかったことがない。
「ドライブ・マイ・カー」では西島秀俊と霧島れいかのそれがあり、重要な事として描かれてもいるけど、でも見ててもやもやはした。乳首の映る映らないもあったけど、それを措いても。象徴的なセックス、意味のあるセックスとして、ここではあるわけだけど、でも見ていてすんなりとは入っては来なかった。意味のある場面としてのセックス描写だから、わざとらしさを感じたというのはまずあるか。他にはなんだろな?
それと映画でセックスが描かれる場合、AVではないので、そのことばかり長々と映してるわけにもいかないし、クライマックスを描写せざるを得ないというのもあるとはいえ、挿れるの早過ぎ!っていっつも思う。え?もう挿入しちゃうの?って。映画で前戯、後戯とかいちいちやってたら、それだけで映画終わっちゃうからしょうがないんだけどさ。単にセックスしてんの見せられても退屈だし。セックスはしてる当人たちはいいけど、傍から見れば、退屈な仕儀には違いない。エロビデオを見ていて興奮するのは自身の内に性的現象が見ているものに喚起されて生じているだけで、ビデオそのものに面白さがあるのとは違う。オナニーでもセックスでもそれ自体に興奮があり、それと映画を見ている興奮は別の話だ。なので当人に起きている興奮でもない他人のスクリーン上のセックスが”映画として”興奮を呼び起こすようにするのは至難の業も当然至極。本来退屈な筈の他人の生理的興奮を映画としての魅力へと変換するには何をどうしたらいいのか。おれにわかるはずもない。そして大概の映画監督にもそれは理解できない。
いや、映画としての興奮が見ている側に起きる時、それは映画内の人物たちの感情の交歓、感情の機微、気持ちの遣り取り、それに感情が引き摺られるからか。そうか。だから映画でのファックシーンが見られるものになるには身体の絡み合いじゃなくて、気持ちの絡み合いを観客に届くように見せればいいのか。なある。もちろん、それ自体が難しいわけだけどさ。まあね。それが簡単に出来んのならば、だぁれも苦労はしない。
最後の三浦透子の乗ってるSAABは西島秀俊から譲り受けたものなの?まさか二人が結婚とかしてないよね?だとしたら、やだなあと思ったんだけど、なんか見てればわかるようになってた?
後から気がついたけど、SAABに載せてる犬はたぶんあの夫婦の犬で、ということは犬と、そしてクルマもそれぞれに譲り受けたものなんだよな。というか犬に関しては、もしかするとあの夫婦と共に、あるいは近くに暮らし、演劇関係のアシスタントとかしており、散歩や何かで連れ出すことがあるのかも知れない。
ただ、北海道の彼女の埋もれた実家を間近に見下ろす雪の上での三浦透子と西島秀俊の抱擁は長く、だらだらとして感じられ、性的な感じも感じられて、見ててもやもやしちゃったんだよな。なんかもっとあっさりとハグに留めるか、あるいは触れ合うことなく、けれど気持ちの繋がりを暗示するような何かであった方がよかったな。べたべたしてたし、なにより時間が長かった。
あの雪に埋もれた三浦透子の実家は、あれ、セットとしてああいうふうに作ったのかな?それともCG?美術として、あれを作るのは大変だろうなと見ながら思ってて。まして雪が被ってるわけだし。雪の降る前に屋根とかを用意してとかって、それも考えづらいなって思って。ロケーションしててちょうどいいのがあったとか?そんなわけないか。あったとしても撮影許可とか考えるとね。
二人の抱擁の後に無人のSAABが映るのだけれど、そのクルマの下には雪がなく、それがどういうことなのかわからなかった。元々乗りつけた時点では雪の上に止めてた筈だし、しかし、ああしてクルマの下だけ雪がないということはその後ある程度以上の時間、そこに止め、その間、雪が降り積もったということではあるし。
三浦透子、何読んでたのかな。文庫本。
なぜ劇中、CDではなくレコードで、CDでもデータでもなくカセットテープだったのか。車中がカセットだったのはSAABが古くて、搭載してるのが昔のオーディオ装置だったからってこと?まあ自宅でもわざわざレコード流してるわけだし、そういうアナログ趣味ってことじゃあるのか。そういういやらしさは村上春樹原作だから、やはりなのか。
考えてみれば、車中、テープで亡き妻の声が流れ、夫である西島秀俊はその声に呼応して芝居のセリフを声に出し、そして夫婦二人の亡き子供と同い年の女性がそこにいるので、誰も望まない、歪な形で親子が揃ってる、ドライバーの彼女は滅多に喋らないとはいえ、夫婦、親子で会話してるとも云える。
映画では劇中、韓国手話が使われることがあるが、韓国手話といえば、おれにはイ・ランの「イムジン河」のMVを想起する。しかも彼女のコンサートでは日本語字幕で歌詞がスクリーンに映し出されたりもしており、その点でも「ドライブ・マイ・カー」とも少し被る。要は双方共に言語の違う相手とのコミュニケーションを生で行う方法を採っているということ。
演技そのものとしてはオーディション場面のそれが圧倒的だったよね。岡田(将生)くんも、パク・ユリム(手話で演技をする女性)も。パク・ユリム、ほんと素晴らしかった。
おれは岡田(将生)くんがとにかく好きなので、彼が出てるだけで、ああ岡田くんだあと嬉しくなってしまうの。だからなんだと云われても困るよ。
「昭和元禄落語心中」の岡田くん、ほんと素晴らしかったよね。ああ。
吉田大八が役者として出てたはずだけど、クレジットで見た、どこにいたの?わかんなかった。おれが彼氏の顔を把握してやしないんだから、あたりまえっちゃあたりまえだけど。
メタファーや思わせぶりの洪水。広島。土砂災害。子供の死。子供と同い年のドライバー。タバコ。レコード。緑内障。多摩ナンバー。ヤツメウナギ。繰り返される、セリフのやり取り。役者には敢えてのセリフの棒読みを演出家(西島秀俊)は課しているけど、途中までの三浦透子も棒読み的な言葉しか発しなかったこと。手話。ゴドーを待ちながら。ワーニャ伯父さん。盗撮。犬。最後、三浦透子はスーパーで食料品を買い、車内で犬と戯れるが、食事を拒否し、笑顔を拒否していた彼女が最後にそうなるということ。冒頭、霧島れいかの顔は暗く、映らないが、その後彼女の死の後も、彼女はテープの声のみで顔を持たないこと。妻亡き後、夫はスマホで撮影した動画を見たりはしない。死者との会話。映画内、ずっと晴れていたが、最後、北海道行きの途上でようやく雨は降り、北海道に着くと降ってはいない、積もった雪。三浦透子は最後にマスク姿。等々、とにかくなんかしら意味のあるような要素の目白押しで、入れ過ぎだろうとは思うし、それ以上に、なんか頭で考えたアイディアを入れてる、手が見える感じもしてしまう。
結局、「女に救われる男の話」で、今回、脚本家は男性二人で、これが女性が入っていたらどうなっていたかとかなあとかぼんやりと思う。女が入ってれば、それで済むってことでもないんだけどさ、なんつかともかくオルタナティヴな視点てのが欲しいわけですよ。ないものねだり。
妻が脚本家で、深夜ドラマの脚本として、みたいなのがあったけど、濱口監督の深夜ドラマ、見てみたい。テレ東が待ってるよ!
「寝ても覚めても」、それに今回の作品でもメジャーな俳優を使うことについても考える。インディーに映画を撮ってた時はメジャーな俳優は出て来ないわけで、今回だと、特に西島秀俊がいて。そういうことでの同じ監督での作品の変化みたいなもの。これは今後考える。(考えるわけじゃないな、なんとなくそのうちいいアイディア思いつかないかなあと)
あと「ドライブ・マイ・カー」だと演劇祭の関係者の2人が素人(?)演技で、それこそは棒読みで、そこらへんの異化効果は監督は意識してないはずがないわけで、そこもなんか気になったので。メジャーな人と一般には知られない人の対置。
ラスト、三浦透子が観客に向かい手話で語りかけたならよかったんじゃないか?なんて云うのかはわからないが。「よかったら乗りませんか。運転は私がするので」そして走り去る赤いSAAB。