國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

波瀾万丈

「波瀾万丈」のゲストが小山明子だった。
彼女、高校時代に東大生とつきあい、オルグられていたらしい。
御蔭で大島渚とつきあい始めてからも左翼用語やその手の歌などにも詳しく、不自由なかったとか。
おれも美人の女子高生をオルグりたい。しかしその前に東大生にならなきゃならんが、それが無理だ。惜しい限り。
しかし創造社の映画、全部小山明子のギャラでまかなっていたのか。
大島渚、観たくなった。久々に「少年」とか観たいが、あいにくとDVDが近所にはない。
(そういえばNHKで高村薫の「照柿」やった時、主人公役の三浦友和がフラリと入った映画館では
この「少年」を上映しているのだった。あり得ないだろ、そりゃ、とは思った。
文芸坐でもないのに。ただの地方の映画館なのに、って。
ま、野暮ってもんだが。そう思っちまうのも人情ってやつさね。)
まあ、この際他のでも。「御法度」観てないしな。まだ。
もちろん昔の作品こそが今は観たいんだけどさ。
ちなみに一番好きな大島作品はありがちに「日本春歌考」だ。

ゴダール

今日、図書館行って、ポーリン・ケイルの「映画辛口案内」を借りて来た。
おれがゴダールに関してなんとなく感じてたことを的確に指摘してあった節を久々に確かめたくなったのだ。
これ読むの、しかし10年以上振りだ。
で、以下、ゴダールの『カルメンという名の女』を評した文章からの引用。
《 ほかのみんなは(カルメンも含めて)リハーサル中の俳優のように見える。これといった視覚的印象がない。それは監督としてのゴダールが、『勝手にしやがれ』から『ウイークエンド』まで---一九五九年から一九六七年まで---に自作の出演者と共有していた感情のきずなが、ここにはないからである。アンナ・カリーナや、ジャン=ポール・ベルモンドや、ジョン=ピエール・レオや、マリナ・ブラディや、その他おおぜいにわれわれが魅了されたのは、ゴダールが彼らに魅了されていたからだ。まるでカメラが彼らの本質をのぞきこんでいるように思えた。『カルメンという名の女』では、カメラが出演者を冷淡な第三者の目で見ている。 》
《 六〇年代のゴダールの映画に現われた女たちは、たしかに彼を狂気に駆りたてた---それが映画に叙情的な活気を与えたものの一部だった。一九六五年の『気狂いピエロ』---これがゴダールの本当のカルメンだ--- 》云々。