國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

しあわせ

映画でどんなに深刻な事が起こっていようと表現されていようと、なんのことはない、観て
楽しんでいるだけだ。同情するのは気持ちいいし、楽だ。自分が安寧の中にいること、そして
自分が幸せになるっていうのは世界に対して一体どういうことなんだろう?最近ますますわからない。
不幸は比べるもんじゃないがどう考えたって自分よりヒドイ目に合ってる人は、そこから一生
逃れられない人はいる。大勢いる。そうした中でおれなんか例えば相当に恵まれている方だと
言って差し支えない。映画を観る。TVを見る。ニュースを聞く。外を歩いていて、明らかに
恵まれない人と擦れ違う。一体それで自分の幸せってのはなんなのか、よくわかんなくなる。
自分の幸せ、つかみたぁ〜い/ぼくだって人間さ♪自分の人生を生きている以上は自分が幸せに
なることを目標にせざるを得ない。他人のことなんか、まして世界のことなんかどーにも出来ない。
いや、世界はいい、そんなことよりも今そこで擦れ違った人の境遇にそもそも関わりたいとさえ
思わない。大体関わらずに済んだならそれに越したことはない、というがふさわしい。
でもTVのドキュメンタリーでそういう人を見掛けたら同情する、周囲の理解のなさに憤ったりもする。
で、それを見て同情しているおれは一体なんなんだろう。
"Guerrilla war struggle is a new entertainment !"
不幸な人を想像して泣くのは気持ちいい。いっぱい同情しちゃう。でも現実、関係することは
あまりないか、関わらんで済ます方向でいく。ごく身近で同情以上に力になれるような相手に
対してでさえ、面倒が先に立つ。そんな暇あったなら映画に行きたい、そしてその中の登場人物や、
彼らが想起させる恵まれない人たちに同情して泣いていたい。その方がずっと楽しいからだ。
面倒じゃないし。第一。好きなことは負担にならない。又、実際自分が今以上に安寧な暮しを
得ると仮定して、それはより不幸になってゆく人たちに対する裏切りじゃないのかと自問し、
幸せになることに後ろめたさを感じ、それが為に自分ばかりがいい思いをすることが後々、
数倍の不幸となって自分に襲い来るのじゃないかと不安にもなる。なんの力もないのなら、
自分の生活をよりよくすべく動こうが、人の心配して気を揉んでようが、どちらにしろ役になんか
立ちゃしない、って点では結局いっしょだ。自分だけの分しか生きようがない。そしてそのうち死ぬ。
それだけだ。死ねば終わりだ。世界もなくなる。他人も存在しない。幸も不幸もない。
美醜もない。なにもない。This is the end/Beautiful friend ♪
ことばを連ねることによって(表現をすることによって)世界を変えることが出来るという幻想は
人間である限り、持ち合わせてしまっている。あらゆる表現は、歌を歌うことからテロに至るまで、
なんでもかでも、おまじないでしかない。人間は生来のおしゃべりだ。表現から逃れられない。
説明解釈変革を常に求めてしまい、身体のどっかしらがせわしなく動き続ける。自分にはなんの力も
ないのにも気づかず、「ことば」は「神」のごとく働くと思い込んで。おまじないを口にすれば
唇ぐらいは動くだろうし、空気だって少しは振動もするが、それっぽっち、そこどまり。
こうなって欲しい、という得手勝手な、希望的観測に沿ったように世界を動かすことへは当然
届くようなことじゃない。身の丈なんて立って半畳、寝て一畳、そんなもんでしかないのに。
自分の身体さえコントロールできるもんじゃないのに。地球はもっともっと大きいじゃん。第一。
しかもすべてに因果関係がついてまわるのなら、全部を全部同時に動かさなきゃ、なにも動かさないのと
いっしょだ。もちろんそんなことは無理だ。けど、おまじないならOK。世界を好きに動かして
みせるのも容易。トイレに行くのをちょっと我慢する程度で。