國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

市川雷蔵

昨日は8時くらいには寝てしまい、相当に疲れていたのと、それを加速する寝不足、今朝は5時半には
目が一旦覚めたが、起きるのが億劫で、目覚ましを掛けといた午前6時から15分ほど過ぎてから
ようやく布団から出る。横になりながら今日出掛けようかどうか迷っていた。けどベッドから
出てしまえば勢いもつく、顔を洗いヒゲを剃り歯を磨き髪にドライヤーなど当て、一通りの
朝の仕度も済ませ、着替えもし、ちょっとネットで映画のスケジュールとシネスイッチ銀座
場所をあらためて確かめると6時半も過ぎ、出掛ける。
有楽町に着いたのは9時前。今日も数寄屋橋、チャンスセンター前は年末ジャンボを求める貧乏人どもが
長蛇の列を為していた。当たればいいが、持ちなれないカネなんか持つと道を誤るゼ。
だからおれはたまにスクラッチを買う程度だ。ああカネ欲しいなあ。貧乏治んないなあ。
いつまで経っても。およそカネに縁がない。はあ。
JRの駅からそのまま当該場所へ赴くと既に人が相当に並んでいる。そのまま列に付く。9:00に
なると本日2回目、『新平家物語』の整理券配布開始。No.69を獲得。そこを離れ、朝食を摂りに
ドトールまで行く。1回目の『弁天小僧』は10:00開始、ドトール着いた時点で既に9時もだいぶ
まわっており、気もそぞろにパニーニとブレンドのセットを食う。ついでに後で腹減った時用に
パンを2つ買う。そして劇場へ戻る。1回目の『弁天小僧』は並んだもん順だったが、
いざ入場すると2階席通路側、割りによい席を確保できる(ここは次の『新平家物語』でも世話になる)。
『弁天小僧』、監督は伊藤大輔、いやあ実によかった。最後は泣いちゃったよ。泣かされたネ。
ツボ突きやがって、まったくもう。他も泣いてる人は多かったと思う、
なんとなしそんな空気が流れていたのだ。
本日、たぶん以後もそうだろうが、年齢層はまったく高い。おれなんか若い方だった。
殆ど年配者、たまに若干若目(その中にはおれを含む)が混じる。そんな布陣。
『弁天小僧』が終わり、一度劇場を出るや、ちょうど本日のゲスト藤村志保が車で到着する、そのまん前に出くわす。
そして仕切りの上手くない劇場側の対応、なんか列がゴチャゴチャ、整理券の説明も行き届かず、
そんなこんなを横目に開場を待つ。そして先程の席へ。
(そういや『弁天小僧』、たぶん遅れて来る客を配慮してだろう、天井の電気がはじめ10分くらいの間
点きっぱなしだった。消えないうちは、ったくもう、とじれたが、よかった消えた、でもいまどき
「NO SMOKING」の赤い光りはそのまま。第一千代田区はタバコには殊更厳しく、劇場にだって
健康増進法がどうとかポスターだって貼ってあるくらいだのに、未だに「NO SMOKING」。
そうじゃなくたって、他にも全回整理券指定席方式がよかろうと思える今回のイヴェント、
第一年寄りにはその方が優しいってもんだろう、遅れて来たり、脚の弱い人間には席取りは至難、
まして立見、あるいは床坐りなんざ酷じゃなかろうか。こんな調子じゃやがてシネコンに
負けちゃうゼ、シネスイッチ銀座
そういや立見、いや、坐り見というと、おれはもう20年は前に同じく有楽町で観た、但し劇場は
もっと駅最寄りのいまはないシネ・ラセット、当時の名前はなんだったかぜんぜん憶えてないが、
それはともかく、映画の方は『去年マリエンバートで』、を思い出す。あれは結構賑わってた。
ま、劇場が小さかったせいもあったが、当時まったく久々のロードショー、たぶん20年ぶりとか
そんぐらい?、ほぼ幻みたいだった『去年マリエンバートで』、たまに「バート」を「バード」と
鳥と間違ったかの表記を見掛けるが閑話休題、それだけ人気だったってわけだよ。
そんだけ。思い出話。)
藤村志保のトークも終了、『新平家物語』が始まる。(今回は早々に天井灯消える。)
ここんとこ何本か溝口健二観て思ったのは、昔々の印象だとなんかもっとワンシーンワンカットばかり、
無闇にクレーン使いまくり、ってもんだったんだが、案外そうでもなく、結構カットも割ってあるし、
思ったほどクレーン使ってるわけでもないのだった。記憶なんていい加減なもんだなあ。
印象というか、イメージが一度ついちゃうと、絶対そういうもんだと思い込んじゃうもんなんだなあ。
けど、そうした思い込み、勘違いもまた一興。楽しみはいろいろ。で、特に『新平家物語』、
おれの記憶だと特に冒頭、市場を縦に延々とキャメラは抜けてゆき、長い長いワンシーンワンカットが
観られる、そんな筈だったが、今日久々に観たら、確かにワンシーンワンカット、クレーン使った
それじゃあったけど、それほどの長さでもなく、案外あっさり終わっちゃい、カットは切換わるのだった。
『新平家物語』、音楽は早坂文雄だったが、やっぱいいよなあ。
当時の映画音楽としちゃ、早坂文雄は全く図抜けてるんじゃなかろうか。
音楽自体の印象も強く、それでいて、映画をはみ出るようなことはしない。映画を活かす事必然。
すげえよな。カッコいい。
それだけに夭折が残念と彼のクレジット見かける度に思う。
『新平家物語』、「これからはおれたちの時代だ!」と平清盛、もちろん市川雷蔵、のマニフェスト
終わるが、これまたおれの勘違い、なんかもっと太陽族を当時に擬した映画かと思い込んでいたが、
映画は昭和30年、まだ太陽族以前なのだった、そもそも。ただ、平清盛の性格はアプレ的な部分が
あるのも確かで、というか最初の市場も戦後のマーケットを明らかに思わせるようになっていて、
戦後の溝口作品、民主主義称揚というか、傾向映画的というか、先だって観た『山椒大夫』なんかも
そう、あれだと殆ど『スパルタカス』みたいな感じで、いつも悪い人の進藤英太郎が倒され、
彼の奴隷たちは蜂起し、解放されたりする結末、『新平家物語』だと若き平清盛は大勢の僧兵を
従える坊主どもを彼が放ったたった2つの矢で引かせ、己の中に流れるやんごとなき血を否定し、
従来の公家たちをやがて滅するものと断じ、結果上記のマニフェストになる次第。でもいつも
気になるのはそういうある種社会的メッセージみたいなのが、あんまり板に付いてる感じが
しないんだよなあ。溝口健二って。どちらかというと脚本書いてる依田義賢の趣味のような気もして、
また一方で、どこかそうして社会的なものを描かないといけないんじゃないかと溝口本人も思い込んで
いるような気もし、そこにはそもそも彼自身の階級意識から発するものが大きく関与しているのかとも勘繰っている。
彼はきっと階級、すごく気になるんだが、しかしまたそれを描くに自分に合ったようにする方策を持たず、
どこか教訓臭く、半ば人任せで表現しちまい、よってどこかギクシャクしたような、とってつけた
ような感じになるのかと。終始小さな世界しか描かなかった小津安二郎を考えればちょいとわかりやすい。
とはいえ、今回の『新平家物語』でいえば、ちょうど木暮実千代演じる平清盛の母親が白拍子(しらびょうし)、
芸妓、つまりは売笑婦、の出である、といったあたりに溝口健二の私的な思いが反映されているかのかとも
思い、そういったことはもちろん他の作品にもいくつも散見出来るし、もちろん売春婦、あるいは
下層の女性を描くのは彼の特徴ではある。ただどうしてもそれには社会派的な設定や恩着せがましい、
とってつけたようなセリフの数々が伴ってしまうのが常。だから観ているともうちょっと
プライヴェート・フィルムっぽくはならないんだろうか、自分のことばと自分の表現で描くことは
出来ないんだろうかとつい思ってしまう。言いたいことはあるんだけど、口にするのにどう言って
いいんだかわからない、だから他人の手を借りる、他人のことばを借りる、本人がどう思って
いるかは知らない、ただ観ている方としてはいつまでもシックリは来ない、そんな感じを受ける。