國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

マティス

この前行ったグッゲンハイム美術館展でも思ったが、好きな絵なら一日中眺めていても飽きないし、
毎日眺め暮らしていても飽きるもんでもなく、観る度、目に付く度に思うこと感じること多々で
受取るものは尽きず、ならばこうして美術館で一定の時間ばかり観て過ごして、それでオシマイ、
ってのは時にもどかしい。通りすがりに観る楽しみ、ってのもきっとあるだろうが、けど、
なんてえか、単にもっともっとじっくり観たい、毎日気軽に観たい、って願望はあるってことさ。
ただ持って帰るにはでか過ぎたり、それ以前にお金持ちじゃないとそんなマネは出来ない。
それにまたCHO-!!!ブルジョアの人だって、好きな作品を全部所蔵するってワケにも行かないし、
大体数がありすぎたなら、それはそれで観ることが困難になる。
仕方ないから一枚150円のポストカード買って帰るわけだが、印象がだいぶん違うし、
あのサイズ、色合い、等々だと絵が生きないもんだってあるので、実物観た後だと
どうしたって、それに近い感じを抱けるようなものを捜してしまう。まず無理。
でもまあ無理を言わなきゃ、それなりに便所に飾るようなもんを得られもするので、それはそれでいいや。
さてはて、美術作品といえば、一枚が億単位で取引きされるような事もあって、そのことは度々
話のタネにもなるが、しかしそれで思うのは、絵ってのは大体一枚、それっきりしかない、ってことだ。
それがどうした、って言うと、複製技術、コピー、それに伴う経済について考えてみようかしら、って話。
絵画が一枚数億円だったならば、絵ごとき一枚に大層な値段つけやがって、それもこんなワケわかんねえ、
ってことはよく聞く話だが、でもさ、つまらぬ意匠、つまらぬ作品であったとしても、それが
コピーされ、世間に大量に配布されれば、そこには印税というものが生じ、結果、ひとつひとつの
値段はさほどじゃなくても、たちまち数億のカネになるし、その際に関わる人間、中間業者の数たるや、
美術作品ひとつのそれに比すに数十倍、数百倍、ってことになる。
ほんでだ。一枚数億円の絵があろうが、ヒット曲ひとつで数千万円、数億円になるようなことを
考えればさほど理不尽なわけでもなかろう、ってことだ。
あとそうだな、建築ってやつも単純にコピーのしようがないので、印税とかに預かれなくて可哀想だ。
さて。この先話をどうつづければいいのか検討がつかないが、ともかくも、経済ってなんか
不思議ねってことで。
複製技術の発達と大量消費の時代にあって、美術に限らず、作品というものの意味の変容、
いやそもそも「芸術作品」て概念自体がヨーロッパのある時期以降のブルジョア社会の産物なのかしら。
「作品」が一定の作者の自己表現と看做されるようになったのはいつ頃、どうやって、なのか、とか。
(昔の美術作品なんて大概名無しだろうしなあ。たぶん。)
そうだ。それに伴い、「自分の作品を売る」、そしてカネにして、生活するという貨幣経済との
絡みってのもあるな。芸術家という職業の出現。身分制の揺らぎ、やがて崩壊との絡み。
「芸術家」がある一定の身分から、徒弟制度ってことも考えに入れなきゃ、そして半ば自由選択出来る
職業への変化。そして自由であることと、経済をじゃあ、誰がどうやって支えるか、って問題の出現。
特定のパトロンを失い、しかしその一方である種の自由を得、自由を支えるのはカネになった。
それも自分の作品で稼ぐそれに。
ただこれ以上はヨーロッパ史とか美術史なんかとんと知らないので、上手いこと話を展開出来ず、
つまりはデッチアゲ、騙り、が出来ず残念な限りだ。こういう時教養とかいっぱいあると
いいよなあ。ハッタリかましたいなあ。(ウソかも知んないけど、なんか筋が通ってる、みたいの。)
カレンダーでもCMでもポストカードに使われる、ってんでもいいけど、そういうのの使用料とか
著作権(?)とかってどうなってるんだろう?それに又ああいうのって、なんか写真とか撮って、
それを元にするのかなあ。じゃあ、その写真は誰だどう撮影してるんだろう?そういうの気になる。
更にオリジナルになる写真みたいのが一枚(?)あって、世界中でそれを元に複製作ったり、
引用とかしてるのかなあ?どうなってるんだろう?
世の中には色んな職業があって、色んな作業、工程がある。とても気になる。109とかに飾られる
どでかいポスターとかどうやって制作すんのかなあ、とか、都バスの全面広告、あああいうのって、
どうやってこさえて、そして車体にシールかなんか知らんけど、貼ってくんだろう、とか。
その手の印刷技術の過程、スゲエと思うんだけど、すごく興味がある。
あ。そうか。タモリ倶楽部で取り上げてくれればいいんだ。やってくれ、タモリ