身分選択の自由

就職ってのはどういった業務に就くかってことではない。
どの身分を選ぶか、ってことだ。身分選択の自由に恵まれたならより高い身分を選びたまえ。
それが懸命というものだ。ポリシーだの自分の考えがある人間はそんなもの捨ててしまえ。
でもあれだよ、ポリシーや自分の考えってのは生活の障害、生きる枷になるけど、案外なんとかやってけたりもするので
ま、そんなもんがあったって、多少生きるに支障があったって実はどうってことない。
人生、要素が様々で、それらの有機的・複合的な作用の中にあって、しかも時々刻々と変化し続けてる。
結果でしか人生なんて測れない。しかも誰がどう測るんだか。測ってるヒマもないってことだってある。
「確実な人生」なんてのは単に虚妄だ。そうあって欲しいってだけにしか過ぎない。
思いつく順なのでまったく一貫性というものに欠けた文章だが、おれはこういった風にしか書けない。それが限界。
要はポエムなんだよな。だからいいんだ。これで。ラップですよ。韻を踏まない。
チンコがでかいのは誰の仕業(しわざ)?
学生に戻ったとして、おれ、やっぱりなんの仕事に就きたいかわかんねえなぁ。
自分でどうこうなんて出来ないし、どっかに勤めて給料貰ってってのしかおれにはやれないから、
だとしたらやっぱ会社勤めだが、でもやりたい仕事なんてぜんぜんないもん。
おれの望みといえばただただ毎日マイペースで過ごして、朝は好きに起きて、でも早起きがいいな、
朝の連続テレビ小説見て、メシ食って出る支度して、図書館行ったり、喫茶店行ったり、
気が向き次第映画に行ったり、街歩き。
たまに旅行したり、ストレスのない生活して、セックスする相手もいて、ともだちもいて、
毎日不自由なくぷらぷらすることだけだな。仕事なんてしなくてもまったくなんともないな。
おれが興味持てることったら、テレビに映画に音楽になんだか要するにそんなようなことだけで、
カネになるようなことに意義を見出す気はさらさらなし。単に遊び暮らしたい。ぶらぶらしてたい。
でもさあ、なんで世間で「やりがい」だの「生きがい」だの言うと必ず仕事なんだろうなあ。
セックスしまくりたいとか、昼寝してたいとか、ギャンブルやってたいとか
釣りしてたいとか、なんかそんなことばかりが望みってのはまったくにふつうだと思うんだがなあ。
「やりがい=仕事」って、そいつはまあ立派な御仁で結構。修身の教科書に載ってるのかい?
今度見とくよ。あんたがそこにいたらおなぐさみ。
あんたが「やりがいのある仕事」に就くってことはスーパーのレジ打ちや工場のライン作業や
警備員の仕事を他の誰かに押し付けるってことだ。
「生きがいとは他人よりマシだと思うこと」(by 山本夏彦
それを理解してるんならいいが、そうじゃなく、くだらない仕事に就いてる人間は努力が足りない、
人間として劣るとか思ってるんだったら、死ね。そんな奴は。
人間にほんとうに大事なのは仕事じゃなくて生活だ。
いま目の前にいる人との関係だ。それが家族の場合だってあるし、そうじゃない場合もある。
そして家庭の幸福しかせめて望めず、少なくともそれが手に入ったなら、せめて他の人たちのことを思い遣るべきだ。
世界中のあらゆる人たちのことを。
そして自分の無力を、多くの他人とはせいぜい擦れ違うことしか出来ないその不幸を思うべきだ。
飢えた子の前での自分の幸福とは一体なんなのだろうと考えるべきだ。一日1分くらいは。
すぐ目の前にうめき苦しんでいる人がいても、「ああ。」と思って通り過ぎることしか出来ない、
その人と自分を隔てているものは一体なんなのかについて一生掛けて考え続けたってべつににわるかないだろう。
そして自分だけ聖人君子になってその人に手を貸したとしても、実はなんにも解決しない。世界は変わらない。
ケチでチンケな人間に、ほんのちょっぴりの親切の機会を与えること、それが可能な世界。
「この街に必要のない人間なんていねえんだよ!」