國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

森繁久弥

「猫と庄造と二人のをんな」を観る。
始まってしばらくして、なんか調子がおかしい。置いてけぼりくらってるみたいだ。映画の中の
役者たちが観客に構わず勝手に演ってる。それが結局延々と続き、終わりまで。演技に問題が
あるわけじゃない。演技はもしかして最高の域だ。脚本がよいせいかも知れない。セリフが
よいのかも知れない。わからない。でもでもでも。撮り方と編集がおかしい。観ていてずっと違和感を
感じる。入ってけない。ロングがずっと続くかと思ったら、唐突にバストショット、アップなどになる。
キャメラがこちらに据えてあるかと思えば単なる切り返しでなく、ヘンな、シックリしない位置に
カットが変わると変わっている。そしてまた別の位置に切換わったりする。落ち着かない。
いちいちがばらばらでまとまりがない。かといって前衛的とか変則的なショットを狙ってとか
そういうんではない。中途半端にキャメラ位置が移動する。カットが変わるごとに。映画の中に
入っていけない。よって役者がセリフを言っているのをあわあわしながら眺めているばかりに
なってしまう。みんな観てて、そういうぎくしゃくした感じを受けないのだろうか。別にキャメラの
位置がどうしたとかいちいち思わず、映画をただなんとなく観ているような人でも、その画面の
落ち着かない感じって受取るのじゃなかろうか。話にだって入っていけないんだもん。ロングが妙に
多いし、かといって、その引きの画にちゃんとポリシーがあるってよりは、ただ単に芝居をそのまま
見せてるだけみたいに思えるし、長廻しのシーンだって、同じくで、芝居を生かすとかなんとか
ってんじゃなく、単に映してるだけって気がする。だってそういったロングショットや長廻しの後に
なんとなしに、説明的にアップとかになるんだもん。一貫性がない。その場限りの繰り返し。
大体喜劇なんだし、セリフの応酬(相当に早口、しかも関西弁)で見せる話なんだから、もっとふつうに
バストショットの切り返しとかで、各人の表情や顔を見せつつ、役者の微妙な表情や所作をアップで
捉えつつ見せた方がよほどに効果的、というか話の趣旨に沿ってるんじゃなかろうか。ともかく
なんとなくロングショットってのが多過ぎる。かといって舞台的な撮り方とかってんでもない。
単に一貫性がない。観ていると、頼むからもっとオーソドックスに撮ってくれよと思ってしまう。
普通に芝居を見せてくれ、セリフの応酬を見せてくれ、と思ってしまう。ちゃんと撮れば、
役者のよさもあって、相当に面白いもんになってそうな気がするしなあ。なんでこんな中途半端な、
技巧的ともいえない、映像派とかそういうんでもない、半端なショットの連続なんだか。
(ロングショットは喜劇に向かない、ましてセリフが肝要なもんなら尚更。基本は人物寄りで、
ここぞという場面でこそロングを使うとかじゃないのかなあ。その方が観易いような気がするし、
喜劇らしいきびきびした感じになると思うんだがなあ。)
(せっかくの役者の顔を斜めから捉えてる場合が結構あって、それじゃせっかくの演技を、そして
役者そのものを損ないやしないかとも思った。斜交いから撮る必然性も特にないような場面で
そうなんだもん。観てるとなんでそんなとこにキャメラ持ってくるのかなあとか思っちゃう。)
映画自体はともかく、香川京子が終始フトモモ出しっぱなしで、いまどきの娘からすれば脚は
若干短くもあるが、おれの知る限りいつも清楚なイメージの彼女が蓮っ葉な娘役で、ぷるぷる震える
フトモモが見物出来るのは相当によいのだった。毎度の彼女とのギャップがたまらなかった。
ちょっと興奮しました。で、脚がやたらと強調されてるのは脚&足フェチの谷崎潤一郎
原作から来てるんだろうが、まことによいことである。
あとこれ、タイトルに猫がつくくらいで当然ネコが出て来るが、そのネコ、香川京子に幾度も
放り出されるのだった。(最後には山田五十鈴にも。)結構本気投げ。ま、もちろんネコゆえ、
キャット空中3回転で見事着地、事なきを毎度得てはいるんだろうが、結構虐待的場面で、
当然そうなると藤田敏八「スローなブギにしてくれ」を思い起こさずにはいられない。
ま、「スロー」ほどには虐待してないが。(チャトランのことはこの際言わないでくれ。)