真夜中の弥次さん喜多さんPt.2 (ネタバレは承知の上で)
この映画、観ているとまるで時間も空間も前進している気がしません。
『弥次喜多』なのにぜんぜん珍道中モノじゃないのです。
ロード・ムーヴィーじゃないのです。
大体映画が始まり、いよいよ旅に出るや否や、いきなり伊勢の手前まで行ってしまいます。
そして全速力で江戸まで戻るはめになります。
(そして伊勢にはついに到達することはありません。)
これはつまりは「アンチ・ロード・ムーヴィー」宣言、てことでしょう。
トリップ・ムーヴィーではあっても、けしてロード・ムーヴィーではないのです。
さらに時空間を越えることはなくとも生死の境目だけは越えるのです。
おならで吹き飛びながら。
相棒に再び見(まみ)える為に。
そもそも半ば以降、弥次喜多の2人はてんでバラバラ、三途の川の両岸に別れ別れ、
時折出会う相方は常に幻、なのです。
ひとりぽっちなのです。殆ど。箱根の関所で離れ離れになって以来は。
そんな珍道中、バディ・ムーヴィー、ってのはありません。
旅の最後で『真夜中のカーボーイ』(あ。いまごろ気づいた。『真夜中の』って
こっから来てんじゃん。あああ。そんなこといまどき気づいて。遅れてますね。
原作読んだことないし。)のように連れが死んじまうことはままあります。
でもハナから2人バラバラ、しかも中途で相棒が死んじまうだなんて、ここにあるのは
ただ孤独と死、のみです。でもそいつをいつかひっくり返してやろう、ひとりきりじゃなくて、
2人きりになってやろう、そいつがリヤルってもんよ、てやんでえ!
・・・といった話なのかも(?)知れません。(文章の流れでこうなっただけですが、
なんか尤もらしいので、とりあえずこのあたりで一旦〆。)
(ああしかし『真夜中のカーボーイ』かと思い当たれば、なんか色々と
わかってくるような気がして来た。)
(『真夜中のカーボーイ』はニューヨークの街の中でのシケた男2人の話で、最後にバスで
フロリダを目指すまでは別にどこにも行きゃしないが、2人してなんとか生きる手立てを
捜そうとする、精神的なロード・ムーヴィーには違いない。
しかし行き詰まりのNYはまた煉獄の謂いでもあろうし、つまりは時空間が前進しない、
そうなれば『弥次喜多』が最後、ピンクの象に跨っていずことも知れず行く、ってのは
『カーボーイ』をしっくり返した(ここらへん「ひ」を「し」で)話なのかも知れん。
そのへんの整合性は気が向いたらそのうち。でもたぶんやらない。言いっ放しで。)
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