國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

日記

Burnin Sky

Burnin Sky


(ポール・ロジャースが着ているのはハッピである。)
(でもこのアルバム持ってない。ちゃんと聞いたこともない。
発売当時、ラジオでタイトル曲を聞いたくらい。
でも松村(雄策)さんがこのアルバムについての記事をROに書いていて、
それでいて印象がある。ずっとある。発売以来。
でもまだ聞いたことない。いつか将来ちゃんと聞きたい。)
最近よく聞いてるのはフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」「ヘッド博士の世界塔」、
そしてリトル・フィート「セイリン・シューズ」「ディキシー・チキン」。
なんだかそんな風だ。でもなんでそうなのかはわからない。
まだ当分は大丈夫だろうが、最近たまに考えるのが、いつか将来地球資源もいい加減枯渇して、
環境もだいぶん荒んで、地球上大概どこ行っても不毛の地かそれに準ずるかになったら、
争いに争うばかりの「北斗の拳」みたいな世界になってしまったら、
もうその時は世界に望めることはもうなにもなくなってしまうのかしら?ってことだ。
いまならまだ豊かさもあり得て、そうなればこそ、建前なりと、実現の道遥かではあろうと
平和や平等、福祉なども説得力もあるけれど、食い物も残り少なくなって、
地球規模で展望がなくなったら、もうまったくの弱肉強食、焼肉定食、
なんかそんな風になってしまうのでしょうか。
まあ考えようによれば、いまだって充分世界は陰惨なわけで、現実変りなんかないとも云えますが、
けれどいまならまだ少なくとも展望くらいならある、希望的観測ならば出来る、
しかしこれが将来、例えば氷河期でも訪れた日には、果たして人類は一体?
そんな遠い(?)未来の心配をしてしまいます。
つーか、おれが生きてるうちはまさかそこまでにはなりそうもないので、
どこか安心を得られてはいるというか。
あとそんで、地球が荒廃すると思えば、善なる思想の行き場って果たしてあるのかしら?
とそんな心配。
どうせ人類、最期にはグチャグチャになっちゃうんだと思えば、
平和な世界を望んだところで、まったくの無駄無駄無駄、なんかそんなことになりはしないかとばかり。
なんつーか地球環境の心配じゃなくて、思想の行く末の心配。思想の存在価値の心配。
人類が死滅する際、一体全体、彼らの生活ってのはどんな風なんでしょう?
青筋立てて争いあっているのか、息も絶え絶え無気力千万なのか、
力ないながらも、隣人の心配して食べ物分けていたりするのか。
まあそれぞれでもあり、更に又いろいろ、なんでしょうな。
おれとしては人類もその死滅の間際には隣人への思い遣りが一般になりつつ、
死ぬのもしょーがない、まあいろいろあったけど、ちょっとおもしろかったから
わるくなかったんじゃないの、なんて風に自分たちの種の死滅を受け入れつつ
穏やかに消え去っていってくれるのならば、せめてよいかしら、
なんて淡くもスィートな思いを抱いております。
でも更にこの先、人類にどんなことが起きるのかは100%わかりませぬ。
科学の発達やら、その他予想もつかないことが起きて、「人類の死滅」という事態そのものが
あり得ないような世界になっているかも知れませんし。
なんだかまったくSFですね。そういう世代なのですから仕方ない。