國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

黒人音楽Pt.2

アイディアの断片。頭まわんないし、いまは文章まとめる気力がない。
黒人音楽に於いては商業主義的であること、つまりは経済的社会的に成功する
ことこそが主流社会への抵抗の証しとも言える。
モータウンがあからさまに白人中心のチャートへ食い込むべく
イメージ戦略も含め力を傾け、その結果を見事に得たこと。
ジミヘンの死に因り封殺されたブラック・ロックの復権としてのヒップホップという一面。
おれがここで云っている「ブラック・ミュージック」ってのは特に歌謡曲的なそれであること。
ヒップホップだとまたちょっと考察をしなきゃいけないが、そこまでいまは頭が回らない。
ヒップホップが個人を主張するものであると同時に
コミュニティーへの言及が重大な要素であることの意味合い。
ロックが究極、ラブソングであって、それは歌い手から聞き手へのラヴソングであるということと、
ゴスペルをその源に置いている黒人音楽では
神の前でのあなたとわたし、そしてわたしたちであるということ。
ロック=神の不在。実存主義的。
(「実存主義」ってよく知らないんだけどさ、云ってみたかった。)
ロックがシンガーソングライターであることをその基本としていること。
ジャズについて。
ジャズの正に文学的な受取られ方。
グルーヴィーで生々しい音楽としての、黒人音楽としてのジャズについて。
ロックってさ、結局なんかお行儀よくって。
それがなんか物足んない。
ぜんぜんいい子ちゃんのおれなのに。
ブルースについて。
おれにとってはそのグルーヴの気持ちよさ、生々しさという点ではフレディー・ジャクソンでも
サンハウスでもおんなじなんだが、ブルースもこれまた文学的解釈をされやすいということに関して。
オザケン好きは例えばはてなでも結構いるはずなんだが、YouTubeオザケン拾ってきて
その話をするのがおればかりという不可思議な現象はともかくも、
ええと、小沢健二がもっぱらに依拠するのがブラック・ミュージックではあっても
オザケン・ファンはブラック・ミュージックを忌避しがちであること。
関心をそもそも持とうともしないこと。けど彼が引用しているようなものとか聞けば、
ああ、いい曲だなー、って思えると思えるんだけどなー、けど中々そうはならないもどかしさ。
村上春樹読んで、レディオヘッド聞いてるの類の人って、どうしてそうわかりやすいかなー、みたいな。
思い入れができないんだよねー、ブラック・ミュージックって。
たぶん一般的なロック・ファンな人たちってそれがあってとっついていかない。
おれくらいの世代ならば、モータウンとかアトランティック・ソウルとかは単に定番曲として、
基礎教養として、ロック・ファンではあっても、それなりの認識とリスペクトがあったということ。
ああそうだ、このへんからの流れで、特に80年代ソウルが忌避されることの意味。
60年代のそれ〜ニュー・ソウル止まりの評価。
DISCO SUCKS !!、、、けどおれのアカウント、停止されちゃったんで、
動画を引っ張ってこれないジャン、みたいな。
ベストヒットUSA」見てても、プリンスとマイケル・ジャクソン以外はほぼ白人だったし、
そこではまず、ルーサー・ヴァンドロスなんて見たことあったっけ?状態であったこと。
でも実際にはすっげ売れてたわけなんだよなあ。
そこらへんのMTVで形成された、限定されたヒット曲群のはなし。
不良と黒人音楽の相性のよさについて。
ディスコ。たまり場。
そしてディスコへと出入りできない人たちの聞くロックという音楽。
♪ In My Room、な音楽としてのロック。
あとあれだ、ロック周辺しか聞かない人にこそ、なんでブラック・ミュージックを一部特定、
言ってみれば名誉白人的なもの以外は聞かないのか、忌避するのかを解説してもらいたいなあ。
性的、あるいは「感情」の表現ならば、生々しいものならば、ロックにだってあるはずなのに、
黒人音楽のそれが殊更に生々しく感じられるのはなぜか、ということ。