水瓶座
Aquarius (Let the Sunshine in) - YouTube
明日1/27は誕生日。52歳。
なんだろう52歳って?意味がわからない。
なんかさあ、年なりきのことがないってかさあ。こんなんで52歳って云われても困っちゃうよねーっていうか。
今日はそれで休日だったので地元のシネコンで「ビッグアイズ」を見てから池袋へ行き、立教大学通りにあるバーガーキングでビーフチーズフォンデュとかいうのを前から気になってたので食べてきた。
あとそれと大山へ行き、マテリエルでケーキをいくつか購入。
大山って、52年前、おれが生まれたところだ。自分ちがどこにあったのかはおれにはわかんない。4歳か5歳で保谷へ引っ越したから。大山時代はうちはラーメン屋やってた。
ということで、おれの生誕の地でもあるので大山で誕生日ケーキを買ったりした。マテリエルはいい店で、ケーキ好きにも評価の高い店なので、それがちょうど大山にあって幸いであった。
ピスタチオとショコラのケーキは帰宅後わりとすぐに食い、夕食の後には紅玉パイを食べた。いずれも美味。
最近はずっと休みを望んでいるのに、いざ休日となりしも、とりとめなく過ごしてしまう。そして静かにむだに焦っている。この”焦っている”っていうのはでもおれの根っからの性格だなあ。そして”焦っている”だけで、特に何もしない、なのでまた焦る。「なんかしなくちゃ、生産性のあることをしなくちゃ」って。
52歳の自分がどんなかとか考えたことはなかった。昔から先々の自分が何歳ぐらいでどうなってるとかのイメージを持ったことがない。その場しのぎなのと、世間並がもうひとつわからなかったことが原因だと思う。20歳代の時はただずっと「友達が欲しい」って思い続けてた。それが叶うことだけを夢見ていて、その先とか、自分がこの先どうとかまで考えが至らなかった。
30歳代はようやく友達が出来、恋愛やセックスも出来、ライヴや芝居にも行き、のんびりぶらぶらと街歩きなどし、そして後半にはインターネットとも出会い、ようやくなんていうか人生を愉しめるみたいなことになったので、それだけで過ごしていて、やはり先を考えるということが出来なかった。
大体、先を考えるには基盤になる生活が、というかなによりも仕事がいっつも宙ぶらりんだったから。仕事が決まったそれじゃないとその先だなんて想像できないし、想像しようという発想自体生まれなかった。
そして40歳代に入り、仕事が割りとこれで行けそうみたいなもんにはなったが、待遇その他条件がいいとは云えず、これはこれで今度は不安な近い将来を考えていかざるを得なくなってしまっている。体力落ちるし、老眼になるし、その他。それに両親も年老いて、それはそれまでになくそうで、そういうことは大きい。自信の持てる経済力はおれにはないから。
でも気持ちは若いまんまだしなあ。もっと好きにしてもいいんだとも思いながらも行動力や気力に欠けているので、それじゃあだめだ。
なんといってもおれはあまりに退嬰的で、いちばんしたいことはなんでもない日をただなんとなくのんびり過ごすということだけで、まったく前向きじゃない。妹と夕方にTVで「巨人の星」や「タイガーマスク」見ながらコタツに入って夕ごはんができるのを待ってる、なんかそんなのがいちばんいいなあとかいっつも思ってるんだから。まったくやる気がない。
ビール
今日はまた、昼にホットケーキ焼いたが、生地はまだあまり、それを今度はおやつとばかり3時も過ぎた頃にまた焼いた。そしてそれをアテにメープルシロップたっぷり掛けた後、COEDOビール飲んだ。これはいい感じだったな。なんかイメージしてた感じままだった。COEDOは先日買っておいて、そしてそれとパンケーキが結びつき、したら、よかった。アタリ、だった。
うちは食事係はもっぱらに父親だったが最近は母親の出番も増えた。それはなぜかといえば父親が身体的に辛くなってきたせいだと思う。うちの父親は医者が好きで医者の言うことは昔からちゃんと聞くので明確にどこかがわるいということはないのだけれど、ただ、デブ、なんだよな。これはもうガキの頃からそうで、生家が田舎のわりといい家だったせいもあり、戦後にも食うものに不自由することなく、ずっとずっとデブだ。それが年が来て、さすがにキツくなってきてしまっている。それでもまだ近所の老人向けスポーツには参加したり、自転車にも乗ったりはしてるけど、でも体重が膝やなんかに負担なんだろうと思われる。
そんなわけで最近は父親が料理することも(以前に比べればだが)少なくなりそのためおかずが少なくなった。前はなんか知らんけど保存食的な作りおきのものも含め10品、12品と食卓に載ってた。あと父親が作るとこれは必ずサラダやゆでたまごを切ったものが添えてあったりと、ただおかずがどんと置いてあるというんではなくしてある。
まああれだ、うちの場合、父親の方が料理がうまく、おれとしても父親の作ったもん食うのがすっかりあたりまえになっている。実家に戻りもう10年以上経つが、その間はほぼ父親が中心的に調理に携わってきてたし。料理が好きなのであれこれ試し、失敗もあるし、基本、味が濃かったりってのはあるが、美味いし、おれはすっかり馴染んじゃってる。性格には問題はあるが、そうして家事をするっていうのはうちの父親のいちばんいいとこだと思う。そこはすごくいいなって思う。一時は洗濯もしてたしね。べつに決めたわけでもない、自発的にしてた。自分のかみさんのパンツ干したりとかしてた。なんかいつの間にか。脚が先にも云ったように体重の負担のため滅多に2階にもあがらなくなったのでこれまたしなくはなったけど、でもなんか洗濯もしてた。
そういうとこはお父さんのいちばん(?)いいとこだな。尊敬できる。性格や言動が多少あれでも、家事をする、ってのは大事だと思う。なんかできることをするのがいいんだよね。なんでもそうだけど。口で上手いこと云えなくとも。動く、ってのが大事。むずかしいけどね、実際は。うちの場合、父親がたまたま食べることが好きで、そのせいでずっとデブだけど、料理が好きだったから、ってのがあるけど。結婚して50年以上、あれこれあったけど、結果的にはなんか上手く行ってる。まあまあにわるくない、なら、まあいいとも言える。おれはそして独身のままここまで来ちゃったけど。この先の結婚のアテはないけど。まあ世の中の流れも変わる。昔は結婚があたりまえだった世界だし。いまはいい意味でもわるい意味でも違っちゃってる。
両親が老いて来ている、ってのは最近は常に頭にあって、ほんの10年前にはそこまでの感じはなかったから、なんかね。老いる、って自分自身そうだし。体力その他落ちてるし、それに仕事でもこの先でも、「老後」ってのがごくあたりまえにそこにあるようになってる。でも特にどうもしようもなくて、給料が増えることもないし、よくわからない、手立ても特にないまま、時間が過ぎていく。
その一方でイヴェントでもオフ会でもなんでも、参加したいし、人には会いたいし、ぶらぶら遊びたいし、旅行には行きたいし、欲は常にある。それらが十全にできないことのもやもやストレスもやはりある。こんな生活じゃなきゃいっぱいやりきれてたりもするのかともぼんやりと思いもするし、あるいは結婚でもして子供でもいれば、日々大したことなくとも、ある種の満足を得られてもいたのかも知れず。まあ結婚すればなんとかなるもんじゃなく、あくまで上手く行った場合ってことだけど、でもわるいこと想定してたらどちらしにしろキリがない。
ホットケーキ
今日はわりと寝てるはずなんだけどだるかった。午後のある程度の時間になるまでは。
それって、でも精神的なもんなんだろうなあ。励みになるようなものがない上に仕事などでストレスが常時掛かってて。いつもどよんと重っ苦しい。特に何があるわけじゃなくとも、なんとなく。スッキリしない、前向きになれないという。
しばらく前にマツコ・デラックスの番組でトミヤマユキコが出て来てパンケーキ紹介してて、それ見て以来パンケーキ食いたくて、それも店でじゃなくて、自分で作りたくなり、それが念願叶って今日作った。
材料は番組見た割りとすぐ後に買っといた(ミックス粉とメープルシロップ)んだけど、機会がなくてしばらく寝かせてた。それが今日は勢いで一気に作成。
失敗ってことはなく上手くは出来たけど、味の方は思ったような感じじゃなかったなー。でもまあ、ひさしぶりにそんなもん作ってたのしかった。またやりたい。
ホットケーキはでも中学生の頃に腹減ると一時自分でよく作ってた。むだにでかいやつ。雑なそれ。まあ中学生男子が作るのだから、そんなもんだ。
しかしあのブームはなんだったんだろうなあ?
あと自分で作るおやつだとパンにハム焼いたのとレタス挟んだのもよく作ってた時期があった。中学生は腹減るからね。
今日はあとは録画した番組ちろちろ見たり(「ヨルタモリ」とか「A-Studio」の水野美紀の回とか)、あとは「あまちゃん」をBlu-rayに落としたり。これは甥っ子の所望に応じてやっている。もう100話は過ぎて終わりが見えてきた。全部できたら更にいくつかドラマやヴァラエティも混ぜてアメリカに送りたい。アメリカ行きたい。妹の住んでるところはいうところの郊外なので行ってそんなおもしろいってとこでもないが、ただ妹の顔が見たい。あの子に会いたい。いまは連休が取れなくてましてや1週間10日などの休みなぞおおよそ取れずアメリカなんか行けやしない。
アメリカだけじゃない、あちこち旅行したいのになあ。
名古屋また行きたいし、函館行きたい。福岡に行ってみたい。あとは外国だとどこだろうなあ?妹のとこいったついでにニューヨークとかも行ってみたいかも。
ともかくもどこでも行けばきっとたのしい。いい思い出。
もうずっと長いことだけど本が読めない。読書ができない。それでもiPadのおかげでマンガが読めたりしている。しかし本へ行くにはいつも気持ちが落ち着かず、そしてなによりもYouTube見て(聞いて)、ついったばかりしてしまう。
ついったはなんかやってるとある種の充実があって、気持よくて止められないんだよねー。やんなきゃやんないでも済むはずなのに。
そういえばこの前三田あたりへ行った。そして慶応大学の前から国道1号沿いに歩き明治学院大学まで。そのコース初めてだった。明学と慶応がそうやって一直線につながってるだなんて、学生時代には考えもしなかったよ。あああの頃に気持ちに余裕があって街歩きができていればなあ。コレは何度も考える。後悔。
この前は青山学院大学へ姫野カオルコ講演会に行ったりもした。行ってよかった。
青学といえば、学生時代南青山で学生時代後半2年間(?)ぐらいバイトしてたんだけど、結婚式場の裏方、パントリーってやつ、仕事の前や後に青学の方行ったり、渋谷まで歩いたりだなんて、ほんとうに1度もしなかった。いまの自分だと考えられないけど、当時はそうだった。そういう発想自体なかったし、あっても、渋谷が怖かった。自分にとにかく自信がなくて浪人時代含めて5年間はみっちりとノイローゼだったからなあ。映画館と図書館にいる時だけ、ほんとふしぎだが、入場しただけで、ノイローゼから解放されていた。あとは寝ている間。そこだけがくつろぎの時間。
いまは映画館に籠もるのは望んでする気になれない。映画見てるくらいならどっか歩いてたい気持ちが強い。映画館に籠もるのは、基本、時間を無為に過ごしているかのような気がしちまう。もったいないっていうか。
誰かといっしょだとかどうしても見たい映画だとかじゃない限り、映画館へ行くのには躊躇いがある。いまは。昔は映画館へ行くしかなかったから行ってたけど。それに映画自体、いまは自分の部屋にいる方が多種多様見れたりもするからね。わざわざ映画館へ行くには籠もるにはそれなりに理由が欲しくなってしまう。
2014年に見た映画
モテキ
ウォールフラワー
KT
ソウルガールズ
人間蒸発
サウダーヂ
のんちゃんのり弁
ゴーストライター
ニシノユキヒコの恋と冒険
スノーピアサー
新しき世界
オメガマン 地球最後の男
ネブラスカふたつの心をつなぐ旅
みなさん、さようなら
アナと雪の女王
そこのみにて光輝く
チョコレートドーナツ
ウッジョブ
アデル、ブルーは熱い色
愛しのタチアナ
ブルージャスミン
共食い
野のなななのか
セデック・バレ
相棒3
就職戦線異状なし
呪われた者たち
私の男
サージャントペパーズ
気狂いピエロ
渇き。
グランドブダペストホテル
人生に乾杯!
ATARU劇場版
恋は緑の風の中
リアリティのダンス
オール・ユー・ニード・イズ・キル
26世紀青年
ゴジラ
愛の渦
ホットロード
ソニはご機嫌ななめ
ヘウォンの恋愛日記
憂鬱な楽園
リトル・フォレスト
TOKYO TRIBE
フランシス・ハ
静かなる男
ジャージーボーイズ
日本の悲劇
喜びも悲しみも幾年月
メンインブラック2
忍者武芸帳
死闘の伝説
太陽とバラ
第三の男
北北西に進路をとれ
偉大なる、しゅららぼん
うる星やつら2 ビューティフルドリーマー
赤い殺意
0.5ミリ
紙の月
6才のボクが、大人になるまで。
コンタクト
サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者
わたしのグランパ
ゴーン・ガール
12/13
自由が丘で
百円の恋
今年見た映画一覧
1月
「親密さ」
どんなに言葉を尽くしても映画そのものにはならない。
過日、ポレポレ東中野まで映画を見に行った。
「親密さ」(監督:濱口竜介)
これは長い映画で4時間はある。
途中で休憩つき。
BOX東中野時代、何度か行ったことはあるが、それを考えるともう十数年ぶりとかじゃないかと思う。こんなとこ来んの。
大体最近は地元のシネコン以外に行くことは滅多にないし。休みも少ないし、若くもないし、池袋からざっと1時間は奥に住んでいるので都会は遠いのだ。
それでBOX東中野で最後に見たのなんだったんだろうなあ?憶えてるはずがない。もしかしてなにわ天閣特集かなんか?くだらなくてよかったが、スライムがなんかおしゃべりしたりするの、まだインターネットもましてYouTubeもない時代だ。いまならYouTubeで発表したりしちゃうかもなあ。ああいう自主映画。
あったわ。なにわ天閣。
ひきだしのなかのタイムマシン【なにわ天閣】 - YouTube
映画館で映画でやる、ってのもそれはそれで、ね。味ってもんはある。時代は変わる。
あとあれだ、BOX東中野っていうと映画秘宝まつり、あれに一度行ったなあ。
年越しの企画で、シベ超とかやった。
ひとりで行った。もう10年以上前だ。十何年も前だ。
そして映画へ出かける前に自分ちの玄関で胸ポケットからスマホが落ち、液晶が割れた( ;∀;)
人がこうなるのはよくネットで見かけてはいたが、なるほどこんなふうんなるのね。
勉強んなった。(そして役には立たない)
でもってサポートセンターへ電話したら新品、次の日には届いてた。
IDとかパスワード、いっぱいあってめんどくさかったがなんとか復帰。
まあ、新品にチェンジしたと思えば、わるかないだろう。
買って半年目の出来事。
昔、東中野で映画見るときは「洋包丁」でメシ食ってた。いまはもうない。
洋包丁は高田馬場のにもよく行ってた。勤め先が馬場だったんで。
でもそれももう20年から十数年前ってことだ。その間、おれの人生にはいろいろあった。
そしていまはだいぶんくたびれている。でもこの20年、むだじゃなかった。
先行きは不安だけど、まあしたかったことは大体出来た。そういう意味じゃ後悔はない。
で、話はポレポレ東中野へ戻る。(若干)
いまはスマホがあってグーグルマップがあるんで、初めての道でもなんとか到着できちゃう。
でも都心だけだよな。電信柱に住所表示あるの。それだけで大体、都内だとどこへも行ける。見当がつきやすい。道の向こう側は三丁目だろうな、的な。
けどなんで都内だけそういう風に住所表示してあんだろ?電信柱。
地方には表示はない。
降りたのは最寄りの東中野駅ではなく落合。
出たのが予定より遅くなってしまったのでグーグル様の指示に従い、そっちから歩けとの算段。
曇っちゃいたが雨にはならずの天気で、ポレポレ東中野に到着。
もっと時間的にぜんぜん余裕で着くつもりが、そうもならなかった。それでも開始まで30分以上はあったが、もっとほんとはたまの外出だし、ぶらぶらするつもりだったし、ミスドでも入って(東中野の定番)ゆっくりするつもりだった。ツモリチサト。
そして富士そばへ。コロッケそばを食す。
しばらく前に「めしばな刑事タチバナ」で立ち食いそばやってたのと、NHKで富士そばの社長が出てたの見て以来、たまの都会行きだと富士そば行きたくなるようになった。
前は立ち食いそばっても、富士そばはむしろ避けてたんだけど、ありきたり過ぎてっていうか。味がふつーっていうか。でもいざ行くと結構お気に入り。つゆが熱い。これが食ってて気持ちいい。
いつだったか友だちと新宿で飲んだ帰りだったか、無性に立ち食いそば行きたくなり、池袋で富士そば入ってコロッケそば食ったらすげー美味かった。そんとき喰いたいもんだった。富士そば腹だったってわけだ。ピッタシ。
映画の中身について、いくか。
ぼちぼち。
断片並べるだけだが、いつものことだ。
というかこうしてついったではなくブログなんて書くの、ほんといつぶり???
映画の中で彼氏がもっぱら「おまえ」っていうのが気になった。
彼女や妹に向かい「おまえ」って、おれ、言ったことないんだよなあ。言えない。もし口に出したら自分で違和感ある。似合わない。
名前で呼ぶ。呼び捨てもあるけど、ちゃんづけだったり。
「おまえ」って呼ぶ感覚がよくわからない。
「親密さ」見てて、途中で(?)気がついたんだよな。あ、「おまえ」って云ってるって。だからなんだってことじゃないんだけど、そういう微妙なことが結構決め手じゃある。それで関係性も性格も伺えるわけだしね。
この映画的には「おまえ」って云って欲しいかんじだった。
彼氏の性格に合ってる。ぶっきらぼう、っつかね。そんな感じに。
途中退屈もするんだけどねむくはならない。見ている気持ちよさがあってそれがずっと持続する。
見終わったあと、じんわり残る。読後感(映画だけど)みたいのが。それはいまも。
だからまた見たいって思う。あの”カンジ”をもう一度味わいたい、って。
内容やテーマみたいなことではなくて、見ている時の気持ちよさっていちばん言葉にならない。
そして、どうして見入ってしまうのかって説明がつかない。
単に人物を撮ってセリフどころか、もっとリクツっぽいことをただ云ってるだけだったりする場面もいくつもあるのに、云ってることが頭に入らなくても、共感もできなくても、それでも見ちゃう。引っ張られてく。
口にしてることに興味がないのに気が逸れたりはしない。いや、気は逸れてる。他のこと考えたりしてる。けど、画面はじっと見てるし飽きてない。画面に、というか映画に引きつけられてる。
編集でカットすればいいのに、とは思わない。ああいう一種むだが気持ちよさでもある。なにかが続いてる。演奏が。映画が。
そういうのってなんなんだろうね。いつもフシギ。
この映画に限らない。
平板な画で特にこれといって起こっちゃいなくても、そこに映画の魅力がある場合がある。
どうしてかはわからない。
特に外で歩きながら話してるところなんかそうなんじゃないかと思うけど、いまどきめずらしく(?)アフレコなんだよな。(じゃないかも知れない。技術には疎い)
アフレコって独特のものがある。
いまってそれこそはiPhoneでさえきれいに同録が出来てしまう。
技術はしごく進歩した。
だからいまってCGとかもあって、実際には音声も含めてポストプロダクションは相当に為されてて、単に同録ってこともないのかもしれないけど(そこらへんまったく知らないのでテキトー)、でも昔風のアフレコってのはそんなないんじゃないかなあ?って思う。どうなんだろ?
でもって「親密さ」だともっとわかりやすくアフレコで、おれがアフレコで単純に連想すんのはロマンポルノとかピンク映画。それとフェリーニ。フェリーニは意識的にすべてアフレコだって本人がゆってたような気がする。たしか彼氏の評伝かなんかで。
あと「新宿泥棒日記」でアフレコから突然同録になる場面とかあって、あのフシギなカンジはすごくよくて好きだった。
新宿泥棒日記 (Diary of a Shinjuku Thief) - YouTube
前半は若者ばかりで少しくうんざり、退屈してたのだけど、後半になり家族の存在が出て来てそこからは入りやすくなった。
この映画、前半と後半に分かれていて、趣きが違っている。
前半は劇団が演劇を作っていく。そこでのいざこざや芝居の組立て、といっても実際は芝居そのものからズレて討論したりしてる。芝居作りの一環としてとはいえ。
それでそのうちで戦争是か非か的なことをみんなで論じたりするんだけど、そういうのはすごく気恥ずかしいので見ててつらくなったけど、でもわかっててやってんだろうなあ。青臭くて生硬で、困った感も含めてので。
それでおれは見てて困った感じになっちゃうけど、それがまたこの映画見てる気持ちよさのひとつっていうかね。そういうのもぜんぶひっくるめて、平板さや困った感もこの「親密さ」って映画の演奏の中にあって欠かせない。
うらやましかったな。
都会で暮らしてカルチャーで生きてく、ってのが。
そんな生活、人生に憧れる。
でも一方そこが鼻につくし、若い連中だけかよ、それも都会でカルチャーな、みたいのんが後半の演劇で補填される。家族、が出て来る。
後半は演劇をいわばそのまま見てることになるのだけれど、その芝居には家族が出て来る。
それってフシギだ。
芝居の中に出て来る父親や母親(?細かい内容は失念)はセリフの中だけだし、芝居してるのは前半に出て来た彼らで、彼らだけで、別にあらためて年長者が登場したりはしないのに。
全体としては映画で、その中で別に演劇が映画の中の役柄とは違う役で演じられる。見てると混じってくる。というか演劇部分はその芝居のストーリーに見入っている。でもどこか重なってもいるわけで、その連なりに熱が出て来て、画面に惹きつけられる。
この映画を見ているのは誰なんだろう?
撮影がとにかく見事。
カメラと編集、その的確さ。
後半の演劇がそれで切り取られ、繋がれるから、映画でもあって、芝居の強さもあってオトク感。
後半、演劇の箇所でバックに喫茶店や街のノイズがずっと流れているんだけど、それがすごく効いてて立体的になるんだよね。
あのサウンドは演劇の演出と同時にそれが為に映画にもなっている。
後半の演劇の方がむしろ映画を見てるみたいだった。
というか、演劇部分の方がふつうにドラマがあるせいか。
主人公カップルの男の方、彼がぼそぼそしゃべるんだけど、それが案外に気持ちいい。あれだ、ボサノバ唱法、ジョアン・ジルベルト聞いてるみたいな。(え?)
でもなんだろうな、ああいうしゃべり自体が気持ちいいっていうのは。
よく映画で物静かだった主人公が最後に絶叫する系映画ってあって、そういうのに遭遇すると、またかよこのパターン、台無し、ってうんざりするんだけど、「親密さ」だと最後の方で詩の朗読でその彼氏がいわば絶叫的になるのだけれど、ぜんぜんいやじゃない。見ていてふつうに盛り上がる。コンダクトが効いてるんだと思う。
そしてその彼氏が最後には人柄変わってハッキリとしたしゃべりで出て来て、そのアクセントのつけ方も見ていてノッカれる。
前半の終わり、延々とただただ話をしながら、2人が薄暗い夜明けからもっと明るくなるまでワンカットで大きな道路沿いの歩道を歩いて行く、もうどうしちゃったの?!みたいな見事なシーンがあるのだけれど、それを見ながら、おれはたとえば主人公のその彼氏彼女だけじゃなく、画面のあちこち、橋桁の上の方や2人から離れたどこかを見ていたりして、映画って人物を見るようにはなってはいるし、そうじゃないと話がわかんなくなったりもするけど、そうして映っている登場人物以外のなにかを見ていてもいいんだよな。どこ見てても。そういうよそ見もひっくるめて映画見てるってことで。オチとかない。
演劇では詩の朗読なんかも何箇所か入るんだけれども、そこで放たれることばは意味を取るにはおれの頭が追いつかなくて、でも詩ってことばの響きにノッカってしまえば、もうこっちのもんで、あとはぼんやりと身を委ねてる。
とてもあとは書ききれない。忘れてることもたくさんあるし。
映画見終わったあとはしばらく熱が残ってたな。自分の中に。
なんかあったかい気持ちよさ、なんだろ、風呂入ったあとにほかほかしてるような。
4時間はだから長くはなかった。もっとずっと長くてもいいくらい。気持ちがいいんだよね。ともかく。小説で文章自体の気持ちよさってあるけど、そういうのに近い。そういう映画。
インターネット
(インタヴューズから転載シリーズ)
夜でも朝でもとりとめなく過ごしてることがほんと多くて、休みは少ないとはいえ通勤は30分ほどだし、拘束時間が特に長いということもないから、遅くても20時過ぎ、まー朝早い場合(7時)もあるけれど、以前勤めていた会社で7時前には家を出て22時過ぎまで仕事して帰宅すると零時まわってるみたいなケースはいまはないので、そういう意味では在宅時間は長いのだけれど、でも結局無為に過ごしている場合が多い、というか「無為に過ごしている」と後悔しながら過ごしている時間が。
それでそんな時間になにをやってるかっていえばいまならツイッターだし、前はそうじゃなくともネットしてるわけで、インターネットは時間の魔術師。
おれに限らない、一般にもネットに淫してる人は多かろうと思う。
さみしーんだよね。声を求めてる。
コミュニケーションを。
だからツイッターみたく、リアルタイムでバンバン更新のあるものへといつかは流れていく。
いや、さびしーっていっちゃうと違うなー、刺激が欲しい、ううん、人恋しい、それだ。
もちろんネットでなにを見ようとついっとで幾ら会話しようと、気の利いたこと言おうと、現実に動かなきゃなんも変わんない。映画観てても音楽聞いてても、なんかそんな気になれるってだけで、生活は1ミリも変わらない。人はそうそう動かないし、動けない。
それに日常がいやだからつまんないからそれから逃れたいってのがあるよね。だからネットに淫して現実逃避。
現実逃避ってぐらいだから現実は放っておいてるわけで、それじゃ現実の変わろうはずもない。
現実変えるのめんどくさいから、なんかそんな気になれる世界へGO!
でもじゃー、ネット以前に仕事か、そういう拘束される時間以外になにをしてたかっていうと、やっぱりとりとめなく過ごしてただけで、ネットのせいじゃないよね。無為は。
おのれの性格がそれだってだけで。
でもネットだと変化はそれでもある。ある場合には結構ある。
人と出会える、これがいちばん大きいかなー。やっぱ。
恋人もできたし、友達もできた。
滅多に来ない質問なのに上手いこと書いてやろうとかって構えちゃって、こうしていまごろ。
ま、ありがち。
音楽とか映画とかの話が昔はとにかくしたかった。
友達いなかったから、ほんとそういうのに飢えてた。
高校の時は砂を噛むような感じだったし、卒業してからは浪人中も大学に入ってからもずっと友達ができず、親友とかそんな意味じゃない、文字通りのぼっち、いまならネット用語(?)で大学で「ぼっち」みたいのあるけど、あれがそれだ、それで卒業してからもちゃんと就職もできなかったし、結局音楽や映画に関してはすごく好きだったのに、いつまで経っても話し相手ができなかった。
悶々としてた。
たまにポツンポツンと話す相手もいたけど、でも大したことは話せなかったし、ポツンポツンだし。
ずっとたまってたなー。言いたいことが。わだかまってたと云ってもいいぐらいに。
インターネット始めたのが97年かなー?
はじめは会社にあったPCで見るようになった。
でも当時はねー、ダイアルアップだし、グーグルもYouTubeもはてなもついったもなんもない頃だから。
それでたまに自分が読みたいような興味持てるような共感できるような読み物に出会うとうれしかった。まーそのへんのネット黎明期についてはあれこれ書いてる人もいるでしょう。
それで気になるHPの掲示板にぽちぽち書き込みするようになって、やがて自分でもHPを開設。98年。
そっからまー本格始動だよねー。
それで少しづつオフ会的に人に会ったり、自分の掲示板に書き込みもあるようになったりで。
あとおれに限らないと思うけど、ネットがなかったらそもそも文章書いたりしてなかったって人、大勢いると思うんだよね。
なんかもやもや表現欲求みたいのがあっても、特に小説だの書くわけじゃなし、ハガキ職人になるわけじゃなしで、自分の中にただ持ってただけで表明する手段をキッカケを特に持たなかった人が、ネットだと文章書くことんなるわけで、気がついたら結構書いてたみたいな。
向き不向き、やってみないとわかんない、機会がなければ一生埋もれてたというね。
おれも自分が文章かける、得意だとは気づいてなかったからなあ。書きだすまでは。
それがいざ自分でHPこさえるんで書きだしてみたらこれが結構書けちゃう。
けど「書けちゃう」ってことに気づいたのはずっとずっと後。
書いてる時はネタ書くのがたのしくて、ただ書いてるだけで、そういえばそれまで文章なんてまとまって、人に読ませるものなんて書いたことなかったってのはずっと後から気づく、と。
日記も少しは書いてたこともあったけど、ネット以前、でもおもしろみには欠けてたと思う(それらはもう捨てちゃった)。
やっぱ人に見せる、見られるって前提だとちょっと変わってくんじゃないかなー?文章でもなんでも。
ただ他人を意識するってのとは違って、なんてゆーか、ネタっぽくなるっていうか。なんだろーなー?
上手く言えない。
ネットなかったら、でもおもしろい文章書いたり企画立てたりしてなかった、音楽や映画の話を特にする相手もなかった、たまにいてもそれほど突っ込んだ話をする相手もいなかった、気の利いた言い回しでことば遊び的にものを言う相手もいなかったし、そういう相手と知り合う、つきあうなんて発想自体なかったって人はいっぱいいるよねー。きっと。
けどまあこういうのってネットには限らない。
文明が発達するのに連れて出会いや才能が発掘されるのって。
TVなかりせば、ラジオなかりせばって人だっているだろうし、ギターが流行ったからミュージシャンになった人もいるだろうし、明治になって小説ってのが出来(しゅったい)、それがキッカケで物書きになった人もいるだろうし。
ただネットの場合はあれだよね、それ以前と違うのは、文章に才があったとしてもプロになる確率が低い、あるいはプロにならなくてもおもしろいものを書いてける、人前に出せるってトコなんだろーなー。
だから昔は(いまでもそうだろうけど)、ギョーカイに入れるようなコネや図々しさ偶然があるってだけで大して面白くもない、というか積極的につまんないような人でもデヴューできたり、仕事んなったりね。
才能あるけど、そのへんがだめだとまーだめってのは、まーそういうもんだよね。
それはしょーがない。
でもっていまは殊更にプロになる必要はなくなって。
でも同時にプロっていっても単にギョーカイに入った入れただけの人にしか過ぎなくて、才能のあるなしはまた別の話だってのもある意味ハッキリはしてきてるかも。
でもこうなってくるとエッセイとかコラム的なものを書いて生計を立ててくのはいまはむずかしいんだろうなあとも思う。
素人でいくらでもおもしろい人がいるから。
いまだとたとえば中野翠はデヴューできないよね。
彼女がもしブログとか書いててもそれほどの注視は集めないだろうし、多少人気が出たとして、じゃーエッセイストとかで食ってけるかっていうと、いまはねー。
(中野翠はその凡庸さがなによりよかったんだと思う。そこがいちばん受けてた要因。ハードルが低いっていうか)
それでネットしたらこれはもう音楽でも映画でも小説でも話す相手、話の通じる相手はいっぱいいて、そういうのに段々馴れてくに従って、いつの間にか「誰かと音楽や映画の話がしたい(できないから)」って欲求がすっかり解消されちゃった。あたりまえんなったっていうかね。
あと自分でも書くから表現欲求も。
だからそのせいなのかなんなのか、つか、おれの性格ってだけだろうけど、文化系の彼女とつきあいたい、文化系カップルんなりたいみたいな気持ちがおれにはないなーとわかるようんなった。
で、以上は今朝書いたんだけど、いまはもう22時過ぎててしかも金麦飲んじゃったょ。
もっとちゃんとつづき書くつもりがもぉ、ねー(^^ゞ
だるくなっちった(・∀・)
後で直すかも知れん。
とりあえず出しちゃう。早漏気味に。
・・・それ以前に最近はED気味だけど(T_T)
以上、まとめるとだね。
1.モテる
2.自己表現欲求が満たされる。満たされてMANZOKUしちゃう。
3.モテる
4.文化系おしゃべりができる。いまだとついったで日々ペチャクチャ
5.モテる
6.友達ができる
7.モテる
8.自分に文章能力あるのを発見できる
9.モテる
10.いい仕事に就けたりはしない(リアリズム)
11.モテる
12.痩せられる!(これはウソ)
13.モテる
以上だ!