國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

「親密さ」

どんなに言葉を尽くしても映画そのものにはならない。

 

過日、ポレポレ東中野まで映画を見に行った。

「親密さ」(監督:濱口竜介)


濱口竜介レトロスペクティヴ 特報 - YouTube

これは長い映画で4時間はある。

途中で休憩つき。

 

BOX東中野時代、何度か行ったことはあるが、それを考えるともう十数年ぶりとかじゃないかと思う。こんなとこ来んの。

大体最近は地元のシネコン以外に行くことは滅多にないし。休みも少ないし、若くもないし、池袋からざっと1時間は奥に住んでいるので都会は遠いのだ。

それでBOX東中野で最後に見たのなんだったんだろうなあ?憶えてるはずがない。もしかしてなにわ天閣特集かなんか?くだらなくてよかったが、スライムがなんかおしゃべりしたりするの、まだインターネットもましてYouTubeもない時代だ。いまならYouTubeで発表したりしちゃうかもなあ。ああいう自主映画。

あったわ。なにわ天閣。


ひきだしのなかのタイムマシン【なにわ天閣】 - YouTube

映画館で映画でやる、ってのもそれはそれで、ね。味ってもんはある。時代は変わる。

あとあれだ、BOX東中野っていうと映画秘宝まつり、あれに一度行ったなあ。

年越しの企画で、シベ超とかやった。

ひとりで行った。もう10年以上前だ。十何年も前だ。

 

そして映画へ出かける前に自分ちの玄関で胸ポケットからスマホが落ち、液晶が割れた( ;∀;)

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 人がこうなるのはよくネットで見かけてはいたが、なるほどこんなふうんなるのね。

勉強んなった。(そして役には立たない)

でもってサポートセンターへ電話したら新品、次の日には届いてた。

IDとかパスワード、いっぱいあってめんどくさかったがなんとか復帰。

まあ、新品にチェンジしたと思えば、わるかないだろう。

買って半年目の出来事。

 

昔、東中野で映画見るときは「洋包丁」でメシ食ってた。いまはもうない。

洋包丁は高田馬場のにもよく行ってた。勤め先が馬場だったんで。

でもそれももう20年から十数年前ってことだ。その間、おれの人生にはいろいろあった。

そしていまはだいぶんくたびれている。でもこの20年、むだじゃなかった。

先行きは不安だけど、まあしたかったことは大体出来た。そういう意味じゃ後悔はない。

 

で、話はポレポレ東中野へ戻る。(若干)

いまはスマホがあってグーグルマップがあるんで、初めての道でもなんとか到着できちゃう。

でも都心だけだよな。電信柱に住所表示あるの。それだけで大体、都内だとどこへも行ける。見当がつきやすい。道の向こう側は三丁目だろうな、的な。

けどなんで都内だけそういう風に住所表示してあんだろ?電信柱。

地方には表示はない。

降りたのは最寄りの東中野駅ではなく落合。

出たのが予定より遅くなってしまったのでグーグル様の指示に従い、そっちから歩けとの算段。

曇っちゃいたが雨にはならずの天気で、ポレポレ東中野に到着。

もっと時間的にぜんぜん余裕で着くつもりが、そうもならなかった。それでも開始まで30分以上はあったが、もっとほんとはたまの外出だし、ぶらぶらするつもりだったし、ミスドでも入って(東中野の定番)ゆっくりするつもりだった。ツモリチサト

そして富士そばへ。コロッケそばを食す。

しばらく前に「めしばな刑事タチバナ」で立ち食いそばやってたのと、NHKで富士そばの社長が出てたの見て以来、たまの都会行きだと富士そば行きたくなるようになった。

前は立ち食いそばっても、富士そばはむしろ避けてたんだけど、ありきたり過ぎてっていうか。味がふつーっていうか。でもいざ行くと結構お気に入り。つゆが熱い。これが食ってて気持ちいい。

いつだったか友だちと新宿で飲んだ帰りだったか、無性に立ち食いそば行きたくなり、池袋で富士そば入ってコロッケそば食ったらすげー美味かった。そんとき喰いたいもんだった。富士そば腹だったってわけだ。ピッタシ。

 

映画の中身について、いくか。

ぼちぼち。

断片並べるだけだが、いつものことだ。

というかこうしてついったではなくブログなんて書くの、ほんといつぶり???

 

映画の中で彼氏がもっぱら「おまえ」っていうのが気になった。

彼女や妹に向かい「おまえ」って、おれ、言ったことないんだよなあ。言えない。もし口に出したら自分で違和感ある。似合わない。

名前で呼ぶ。呼び捨てもあるけど、ちゃんづけだったり。

「おまえ」って呼ぶ感覚がよくわからない。

「親密さ」見てて、途中で(?)気がついたんだよな。あ、「おまえ」って云ってるって。だからなんだってことじゃないんだけど、そういう微妙なことが結構決め手じゃある。それで関係性も性格も伺えるわけだしね。

この映画的には「おまえ」って云って欲しいかんじだった。

彼氏の性格に合ってる。ぶっきらぼう、っつかね。そんな感じに。

 

途中退屈もするんだけどねむくはならない。見ている気持ちよさがあってそれがずっと持続する。

見終わったあと、じんわり残る。読後感(映画だけど)みたいのが。それはいまも。

だからまた見たいって思う。あの”カンジ”をもう一度味わいたい、って。

内容やテーマみたいなことではなくて、見ている時の気持ちよさっていちばん言葉にならない。

そして、どうして見入ってしまうのかって説明がつかない。

 

単に人物を撮ってセリフどころか、もっとリクツっぽいことをただ云ってるだけだったりする場面もいくつもあるのに、云ってることが頭に入らなくても、共感もできなくても、それでも見ちゃう。引っ張られてく。

口にしてることに興味がないのに気が逸れたりはしない。いや、気は逸れてる。他のこと考えたりしてる。けど、画面はじっと見てるし飽きてない。画面に、というか映画に引きつけられてる。

編集でカットすればいいのに、とは思わない。ああいう一種むだが気持ちよさでもある。なにかが続いてる。演奏が。映画が。

そういうのってなんなんだろうね。いつもフシギ。

この映画に限らない。

平板な画で特にこれといって起こっちゃいなくても、そこに映画の魅力がある場合がある。

どうしてかはわからない。

 

特に外で歩きながら話してるところなんかそうなんじゃないかと思うけど、いまどきめずらしく(?)アフレコなんだよな。(じゃないかも知れない。技術には疎い)

アフレコって独特のものがある。

いまってそれこそはiPhoneでさえきれいに同録が出来てしまう。

技術はしごく進歩した。

だからいまってCGとかもあって、実際には音声も含めてポストプロダクションは相当に為されてて、単に同録ってこともないのかもしれないけど(そこらへんまったく知らないのでテキトー)、でも昔風のアフレコってのはそんなないんじゃないかなあ?って思う。どうなんだろ?

でもって「親密さ」だともっとわかりやすくアフレコで、おれがアフレコで単純に連想すんのはロマンポルノとかピンク映画。それとフェリーニフェリーニは意識的にすべてアフレコだって本人がゆってたような気がする。たしか彼氏の評伝かなんかで。

あと「新宿泥棒日記」でアフレコから突然同録になる場面とかあって、あのフシギなカンジはすごくよくて好きだった。


新宿泥棒日記 (Diary of a Shinjuku Thief) - YouTube

 

前半は若者ばかりで少しくうんざり、退屈してたのだけど、後半になり家族の存在が出て来てそこからは入りやすくなった。

 

この映画、前半と後半に分かれていて、趣きが違っている。

前半は劇団が演劇を作っていく。そこでのいざこざや芝居の組立て、といっても実際は芝居そのものからズレて討論したりしてる。芝居作りの一環としてとはいえ。

それでそのうちで戦争是か非か的なことをみんなで論じたりするんだけど、そういうのはすごく気恥ずかしいので見ててつらくなったけど、でもわかっててやってんだろうなあ。青臭くて生硬で、困った感も含めてので。

それでおれは見てて困った感じになっちゃうけど、それがまたこの映画見てる気持ちよさのひとつっていうかね。そういうのもぜんぶひっくるめて、平板さや困った感もこの「親密さ」って映画の演奏の中にあって欠かせない。

 

うらやましかったな。

都会で暮らしてカルチャーで生きてく、ってのが。

そんな生活、人生に憧れる。

 

でも一方そこが鼻につくし、若い連中だけかよ、それも都会でカルチャーな、みたいのんが後半の演劇で補填される。家族、が出て来る。

後半は演劇をいわばそのまま見てることになるのだけれど、その芝居には家族が出て来る。

それってフシギだ。

芝居の中に出て来る父親や母親(?細かい内容は失念)はセリフの中だけだし、芝居してるのは前半に出て来た彼らで、彼らだけで、別にあらためて年長者が登場したりはしないのに。

全体としては映画で、その中で別に演劇が映画の中の役柄とは違う役で演じられる。見てると混じってくる。というか演劇部分はその芝居のストーリーに見入っている。でもどこか重なってもいるわけで、その連なりに熱が出て来て、画面に惹きつけられる。

 

この映画を見ているのは誰なんだろう?

 

撮影がとにかく見事。

カメラと編集、その的確さ。

後半の演劇がそれで切り取られ、繋がれるから、映画でもあって、芝居の強さもあってオトク感。

 

後半、演劇の箇所でバックに喫茶店や街のノイズがずっと流れているんだけど、それがすごく効いてて立体的になるんだよね。

あのサウンドは演劇の演出と同時にそれが為に映画にもなっている。

後半の演劇の方がむしろ映画を見てるみたいだった。

というか、演劇部分の方がふつうにドラマがあるせいか。

 

主人公カップルの男の方、彼がぼそぼそしゃべるんだけど、それが案外に気持ちいい。あれだ、ボサノバ唱法、ジョアン・ジルベルト聞いてるみたいな。(え?)

でもなんだろうな、ああいうしゃべり自体が気持ちいいっていうのは。

よく映画で物静かだった主人公が最後に絶叫する系映画ってあって、そういうのに遭遇すると、またかよこのパターン、台無し、ってうんざりするんだけど、「親密さ」だと最後の方で詩の朗読でその彼氏がいわば絶叫的になるのだけれど、ぜんぜんいやじゃない。見ていてふつうに盛り上がる。コンダクトが効いてるんだと思う。

そしてその彼氏が最後には人柄変わってハッキリとしたしゃべりで出て来て、そのアクセントのつけ方も見ていてノッカれる。

 

前半の終わり、延々とただただ話をしながら、2人が薄暗い夜明けからもっと明るくなるまでワンカットで大きな道路沿いの歩道を歩いて行く、もうどうしちゃったの?!みたいな見事なシーンがあるのだけれど、それを見ながら、おれはたとえば主人公のその彼氏彼女だけじゃなく、画面のあちこち、橋桁の上の方や2人から離れたどこかを見ていたりして、映画って人物を見るようにはなってはいるし、そうじゃないと話がわかんなくなったりもするけど、そうして映っている登場人物以外のなにかを見ていてもいいんだよな。どこ見てても。そういうよそ見もひっくるめて映画見てるってことで。オチとかない。

 

演劇では詩の朗読なんかも何箇所か入るんだけれども、そこで放たれることばは意味を取るにはおれの頭が追いつかなくて、でも詩ってことばの響きにノッカってしまえば、もうこっちのもんで、あとはぼんやりと身を委ねてる。

 

とてもあとは書ききれない。忘れてることもたくさんあるし。

 

映画見終わったあとはしばらく熱が残ってたな。自分の中に。

なんかあったかい気持ちよさ、なんだろ、風呂入ったあとにほかほかしてるような。

4時間はだから長くはなかった。もっとずっと長くてもいいくらい。気持ちがいいんだよね。ともかく。小説で文章自体の気持ちよさってあるけど、そういうのに近い。そういう映画。