國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

教養

例えば橋本治の書くものにはおおよそフランス哲学な人の名前が出て来ない(と思う。たぶん、だ。)。
デリダとかフーコーとかそういうの。
サルトルくらいはまあ出て来るかも知れない。そういう世代だし。
ほんで橋本治フーコーとかを共に読んでるような層はいるかとは思うが、
そういう人たちって橋本治フーコーの「フ」の字も出さないことに、ある日ふと気づいて
なんかヘンな気がしたりはしないのだろうか。
だって両方読んでる、日本人で多少知的なことに関心のあろう若人(気持ちが)ならば
そういうのはふつうなはずで、でもしかし橋本治の世界にはフーコーとかそういうのんは
存在しない。
「あれ?」とか思ったりはしないのかなあ。
ええと。
そんでいつもながらに困る落しどころなんだが、この話のテーマは「ふとした疑問」
というだけで、だからどうってのがなく、「だからどう」ってのが正に落しどころなわけで、
やはり今回もそれに欠けてしまう。不徳の致す所。
で、おれの教養遍歴について書きたいという計画があるのだが、例によりめんどくさい。
大した中身のあるじゃなし、単におれがモノ考えたり、
こうして書いてのオシャベリをしたりの際に影響のあった人々は
どなたとどなたじゃとばかりは書きたいのだ。
そんでそこには哲学みたいな人とかはまずいなくて、哲学とはちょと違うかも、
せいぜい吉本隆明、結構読んだりはしたが、読んだのはエッセイみたいなやつばかりを
全集から拾い読みしていたのだった。
でもたぶん全共闘世代な人で吉本ファンの大半はほぼそんな感じだとは思う。余話。
吉本隆明はだってその啖呵とおセンチがいいんだもの。誰だって惹かれる。
てか、わかりやすいじゃん、そういうの。
余談だが、難解の帝王のごとく言われていた吉本隆明にしろ、むずかしい文章書くかに
思われていた蓮實重彦の両人、すっかり文章がわかりやすくなる一方、
ふつうっぽくなる一方な気がするのはおれがべつにちゃんと読んでるわけでも
ないせいばかりでもあるまい。たぶん、もう、一見難解と取られがちな言葉遣いを
する必要がなくなっちゃったんだよな。当時一般に云われなかったあたりまえのことを
なんとか伝えようとして、その結果、回りくどくも分りにくくもなっていたのが、
気がつくとその思考、スタンダードになっていて、そこらへんのにーちゃん、ねーちゃんが
ふつうの言い回しで云うようになったせいだと思いたい。教育が行き届いたのか、
彼らが時代に先んじていたのか、その他なんでもよろしいが、
結果、当の難解の立役者の口上がその中身変わらぬまま、いつの間にやらオシャベリ口調。
(でもたぶんそれには子供や孫、その他近親者やつきあいのある若い連中の影響がきっと大。
ロートルなロッカーが若いねーちゃんと付き合ってディスコ出入り、
クラブ・ミュージックに関心持ったりするのと同一傾向。
つまり人付き合いは大事、って話。他人とつきあうと余得がいろいろありますってこと。)
で、以上、もちろん各人の文章、読み込んでいるわけではなく、当てずっぽうで
言っているのだが、こういのはそれらしい、ってのがミソなので、これでケーオツ。
「尤もらしい」、これが一大事。
それさえ適えばあとはどうでも、その言説に見合う現実など実はなくとも、
Baby, I don't care !! てな具合。
てなわけでおれの教養史はきっと次回。
そして次回はいつだって永遠の先。

ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)

ゴダール革命 (リュミエール叢書 37)


タイトル、「ゴダール革命」って。
やっぱこれ蓮實先生お得意のジョークかなあ。でも同時に本気。そんなところかしら。
立読みで済ます予定。
もう飽きちゃったんだよね。正味。ハスミンに(映画評論しか読んだことないけど)。
最近のぜんぜん読んでないし。追ってないし。
おれの中でブームはとうに去ってしまった。
手の内がわからない⇒手の内読めた!⇒手の内を期待、そしてにやにや
⇒読まない内から手の内がわかるようになる⇒なら、読まなくてもいいや⇒飽きる
⇒気持ちが入らないのでそのうち読まなくなる
⇒遠くから生暖かく活躍を傍観。でも好感は基本的には変わらず。
大概そういうパターンですな。誰に対しても。
てか、もう少しコンパクトに「知る」から「飽きる」までの変遷を記してみたかったけれど、
いまはそこまで頭がまわらない。