國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

カート・ヴォネガット


上記「デッドアイ・ディック」から好きな一節を以下に。
《 そして、寒い日には、いや、それほど寒くない日でも、ほかの召使たち、
庭師やロフトのメイドたちなど、黒人ばかりが、料理女とわたしのいる
キッチンへ集まってきた。彼らはせまい場所へ群がるのが好きだった。
小さいころには大ぜいの兄弟姉妹といっしょにベッドで眠ったものだ、
と話してくれた。わたしにはそれがすごく楽しいことのように思えた。
いまもすごく楽しいことのように思える。
そのこみあったキッチンの中では、だれもが気がねなくぺちゃくちゃ、
ぺちゃくちゃとしゃべっては、げらげら笑うのだった。わたしも会話の
仲間入りをしていた。わたしはおとなしくてかわいい坊やだった。
だれからも好かれていた。
「あんたはどう思いなさるね、ルディ坊ちゃん?」と
召使のだれかがたずね、わたしがそれに対してなにか答えると、
みんなはわたしがなにか賢明で、ことさら滑稽なことを
いったようなふりをするのだった。
もし、子供のころに早死にしていたら、わたしは人生があの
小さなキッチンのようなものだと思っただろう。
もう一度━━冬のいちばん寒い日に━━あのキッチンの中へ
もどれるなら、わたしはどんなことでもしただろう。
帰りたい、ああ懐かしのヴァージニア。》
更に同書のあとがきからヴォネガットが小説の結末について語った一節を。
《 さて、結末ですが、わたしの小説の結末には、よく苦情をいわれます。
しかし、結末は重要じゃない。どうでもいいんです。
わたしは『猫のゆりかご』を、世界の終わりで終わらせました。
人によっては、それをわたしのコメントの一種と受けとりましたが、
実はあの本を終わらせるための便法だったんです。
結末とは、作者が一冊をかけて積みあげてきたものの仕上げだろうと、読者は想像します。
ところが、ちがう。
作者が積みあげてきたものの仕上げは、全体の三分の二あたりのところで、もう終わっているんです。
いいたいことはそれまでにいいつくされ、すべての場面は演じつくされた。
本の最後の部分は、ちょうどこういっているようなものです。
「おいでいただいて、ほんとにありがとう。おもてなしはこれで全部です。
料理は品切れ、角氷もなくなりました。
もうこんな時間ですよ。さあ、コートをどうぞ。また近いうちにお会いしましょう・・・・・」》