國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

四谷いーぐる ヒップホップ講座

ドライブインてもんはなくなった。

そしてこの「ドライヴイン」て単語をいつも忘れる。「あの街道沿いにある個人経営の飲食店、なんて名前だっけ?ロードなんとかじゃなくてー」みたくな。

四谷いーぐるのヒップホップ講座ではどなたかが「私はティムバランドなんかと同世代なのですが、彼らの起こした革命にはまったく気づかないままつい最近まで来てしまっていて、そのことを悔いています」みたいなことをゆってたのが印象的だったなぁ。正に「文化系のためのヒップホップ入門」でタッチしたかったのはそういう人なんだろうし、そういう人に声が届いたってことでもあるわけだから、なんかちょっとよかった(;_;)

おれはずっとロートルのロック・ファンで70年代止まりみたいなんでずっと来てて、それがある日、10年ぐらい前だと思う、「ヒップホップ」ってもんも聴いてみようか、試しに、みたいんで意識的に聴き始めた。

んで、はじめはおれでも名前を聞いたことのあるアイス・キューブとか何枚か聴いてみたんだけど(当時はYouTubeもないし、おれにはレンタルCDって概念もなかったんでちゃんと買ってたんで、そんな枚数ガンガン増やせなかった)、「これならべつにファンクだしなー、ラップじゃなきゃいけないってのもなんかわかんないし」みたいな風でしばらく、ピンと来ないまま、何枚目かに買ったアルバム、ギャングスターの「Daily Operation」、これで目が覚めた。はじめ聴いて「うわ、なにこれ?!こんなことんなってんの?!ヒップホップって?!」ってんでいきなりヒップホップが「わかる」ようんなって、それからはもうギャングスター以前に買ったもんも楽しめるようになってきたし、それとRhythm NationってR&B、ヒップホップなんかを扱ってるサイトに出会って、文章に惹かれるもんがあったんで、いろいろたのしくなって来たってのも大きい。

それでおれがヒップホップを聴けるようんなったのはちょうど南部サウンドがのして来た頃で、元々ブルースも好きだし、例えばザ・バンドみたいんだって好きだしさ、サザンソウルみたいのとかも好みの音だったせいもあるのか、素直にはまっていった。だから逆に言うと、おれは東西のそれを後追いで聴いてて、南部産がリアルタイムなんだよなあ。だから東西への思い入れもなく、南部産にも素直に入ってけた。

あと、そうしてヒップホップを意識的に聴き始めたのともつながってるんだけど、おれ、いつからか、それまでスルーして来た音楽やなんかにも寛容んなろうと思うようになってたんだよな。その頃。

だから拘りなく、気持ちよけりゃいーじゃん、で聴けるような準備もできつつあった。つか、それまでがヘンに頑なで70年代止まりのロック、ソウルみたいのしか聞こうとしてなかったから、そのタガが外れた。したら、もうなんでもイケるし、ニューミュージックでもなんでもよけりゃいーんじゃね?みたいになってけたの。

当日の講座でこっからが本番てことでティムバランドとかの南部モノになると抵抗がある人たちがいて、おれには「いや、こっから更におもしろいじゃん」て感じだったんで、そのへんの拘りが逆にフシギな気もしてた。

いーぐるの店長の後藤さんはその点柔軟で、紹介されるものをおもしろいって感じてて、そういうのっていーなーって思ったりもした。バリバリのジャズ・ファンがそうだってわけだし。

でも一方、ほんとにジャズが好きなら、他の音楽のよさも生理的にも素直にわかるはずだよなーとも思う。グルーヴの肝所を捉えることには長けているはずだから。

f:id:andre1977:20120130233419j:plain

というか、音楽でも映画でも新しいものに否定的だったり、ある種のジャンルを観もしない聞きもしないで否定するような人たちって、というか観たり聴いたりしていてもなお否定的だったりって場合、要は頭で観たり聴いたりしてるんだよね。

映画でも例えばアート映画だと、ああいうのわかんないとか気取ってて云々みたいに云う人って、映画を観るのにまるで学校の読書感想文みたくなことを要求されてるって思い込んでて、読書感想文的なことが書けないと(云えないと)いけないって思い込んでる。自分の観たままでいいのに。映画の中の女の子が履いてたスカートの赤がきれいだったとかそんなんでいーのに。主人公が食べてた菜っ葉炒めたのが美味そうだったとかそんなんでいーのに。

なのに、まずはちゃんとあらすじをまとめて云って、更にテーマについて解説して、最後に私はそのテーマにつきこう思いますとかって書かなきゃいけないみたく思い込んでる。その思い込みのせいで目の前に見えてる、見てるものが見えなくなっちゃう。これはまあ、でもなんでもそうなんだけどさ。人間は目の前にあるものをそのまま見ることができない、頭の中の観念が勝ってしまい、それに従ってしまうという。

音楽だって、これはなんのジャンルで、そのジャンルには特に詳しい人がいて、みたいななんとなくの雰囲気や印象で「聞けなく」なってしまう。単にノレばいいだけなのに、ノル以前にそもそも「聞いていない」。ちゃんと物理的には生物学的には聞こえているのに、「聞いていない」。

単に見る、単にノル、ってことは実はとってもむずかしい。頭のタガをはずすのはとってもむずかしい。

でもアート映画を、モダンジャズを、ヒップホップを「観れない」「聞けない」人たちでも、例えば100円ショップでコップを選ぶことは難なくしている。デザインのどちらかがいいかを素直に決めている。そのコップを選んだ理由は「なんかこっちのがかわいいから」ってことで、具体的には説明なんかできはしないのにしっかりと実際に「選んで」いる。自分の目で観て感じて「選んで」いる。なのにそれがこと、音楽とか映画とかになるとそういう見方、感じ方が止まってしまう。

頭のタガをはずすのはむずかしい。

ヒップホップは聞かないけど、黒人音楽が好きだって人、特にニューオリンズファンク(プロフェッサー・ロングヘアーとかジェームズ・ブッカーとか)が好きだみたいな人はでもリル・ウェインやティムバランドとかすぐに馴染めるんじゃないかなー?って思う。セカンドラインってだけじゃない、どこかコミカルだったりとかそういうのも共通してるし。