國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

キャラメル・ママ

《  わたしがこのとき強く印象づけられたのは、赤門の前に白い割烹着を着て赤いカーネーションを胸に差した中年女性たちが数人並び、活動家の学生たちにキャラメルを配り、声を嗄らして機動隊との対決をやめるように呼びかけていた光景である。新聞は彼女たちを「キャラメル・ママ」と呼び、その時代錯誤をいくぶん嘲笑的に報道していた。だが彼女たちは真剣そのものだった。この呼称はずいぶん後になってから、ロックグループの名前になった。大学生や受験生の子をもつ母親のなかには、多かれ少なかれこうした心情が横たわっていたはずである。わたしの母親は友人の息子が東大構内に立て篭もっていると聞いてひどく心配し、あちらこちらに電話をしていた。「とめてくれるな おっかさん」という、先に触れた駒場祭のポスターの文句は、はからずもこうした日本社会の深層に宿る母性的構造からの訣別を射程に入れている分だけ、きわめて先鋭な批評力をもっていたように思われる。家族共同体からの訣別という主題は、突き詰めてみれば近代アジアでの知識人が向いあうべき宿命的問題とも深く関わっているはずである。
 80年代の中頃になって、わたしはたまたま女友だちの家に遊びにいったとき、その母親と話していて、彼女が「キャラメル・ママ」の中心人物であったことを知らされた。それは田園調布の豪邸で、彼女は「生長の家」婦人部の会長という地位に就いていた。およそ全身が博愛精神の塊といった女性で、「この娘が駅で寂しそうにしてたから連れてきたわ」といいながら、見ず知らずの家出少女を平気で家のなかにあげてしまう人物だった。一方、彼女の一人娘はその後ロンドンに渡り、彼の地で「フランク・チキンズ」というパフォーミングアートのグループを始めた。彼女、つまりカズコ・ホーキは、けっして東京に戻ろうとしなかった。 》
(↑「ハイスクール1968」四方田犬彦 P.66〜67 )