國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

日記

いつからかTVはラジオ番組とNHK教育的なものが増えたよなあ。
蛭子(能収)さん、もうタレントになって長いよなあ。
さっき調べたら、例の宮沢りえのお父さん役「いつも誰かに恋してるッ!」が1990年、
つーことは、今年でメジャー・デヴュー15年じゃん。あれまあ。
いまさっきも12chの旅番組に出てたし、ふしぎなくらいにタレントとして長続きしている。
なんか「義経」にも出てるらしいし、NHK大河だよ、わからんもんだ。歳月は。
一時的におもしろがられて出て来てる程度で終わると思ったら、
気がつくと中堅タレントとしてすっかり定着。仕事も途切れず。ふしぎだ。
伊勢燐太郎なんてAV監督のことは大概の人は知らないだろうに、そのビデオに刺身のツマ的に
出てた蛭子さんがタレントとしてこうも長続きしてしまうなんて。ああ80年代。
で、今日はお約束通り「ムーラン・ルージュ」を観て来ました。1200円。
例によってシネコンなんだけど、シネコンといえば指定席入替制、
そんなんで思い出したけど、昔、映画は途中から入場して観るのがあたりまえだった。ふつー。
だから、大学入って意識的に映画観に行くようになっても、始めのうちは
上映開始していい加減経つのもお構いなしに途中入場していた。
上映中の映画がもう終わりそうでも気にしなかった。
それでよく憶えているのはフェリーニの「甘い生活」で、
おれが館内に入った時、映画ではもうラスト近く、有名な少女と怪魚のあたりに
差し掛かっていた筈で、つまりはほぼオチ(?)みたいなもんを平気で観ちゃってた。
気にしなかった。そんな風に途中入場にためらいはなかった。
でもそれもはじめの1、2回だけだったかも知れない。
それからすぐには、ちゃんと開映時間に合わせてロビーで待ったりなんかするように、
時間に間に合うようにするようになった。
そういう途中入場の習慣というのはもちろん入替制じゃなかったせいはもちろんだが、
映画が1本立て(っていうのかしら。)がそう滅多にあるものでもなく、
2本立て、3本立てとかが普通だったせいの名残りだったのかも知れない。
そしてもちろん1本きりのロードショー、なんてのでもみんな途中入場していたのだと思う。
映画館にはふらりと入る、そういった感じだったのでしょうか。昔々は。
確かにおれにしても、3本立てが通常の名画座であったとはいえ、
ふらりと映画館に入る、みたいな感覚はあったと思う。
まあおれが学生の頃にはもう「ぴあ」はメジャーで、赤ペンで出る度(当時隔週刊)
チェックしてはいたが、それでも特にピンク映画とかは、例えば新宿昭和館地下とかには
時間があるから、って理由だけで入ったりはしてたもんな。
当時は当然ケータイなんかなく、ポケベルもまずない、昼間のポルノ映画館は
サラリーマンの憩いの場所で、スーツの人がいっぱいいた。
まあ今だって都心の映画館ならば、外回りみたいな人はまだいるのかも知れんが、
東京が遠い昨今、事情はよく知らない。
でもケータイがあっちゃーねぇ。不粋な世の中にはなったもんだ。まったくもって世知辛い。
昼間の名画座、あのだらんとした感じ、あれはよかったが、おれ、若かったしな、あの頃。
それが大きい。若さ、それはなにものにも代え難い。
ひとりぼっちでノイローゼ、性欲に身悶える日々ではあっても、若さ、その1点だけは
特別だった、と、いまになればわかる。今になってわかる。
おれの80年代、バブル、つまりは若かった、ってことだ。
精神状況メタメタでも漠然と未来はあった頃。
バブルがどうした、ったって、人によって違うというあたりまえのはなし、でした。
ほんで、どうせ1本しかやんないんじゃ、入替制、指定席だとしてもなんの不便もないよなあ。
てか、その方がむしろありがたいくらいじゃないか。
テケツ買って、あとは時間までノンビリ、ってのが。
年寄りとしては若い人が映画は映画館で、なんて云ってるの見ても、
名画座通いもしたことないクセに、とか、つい云ーたくなっちゃうぜよ。
おまえら、昼間っから3本連続で映画観るだなんて、耐えられないんじゃねーのか、
三鷹オスカーなんかソ連映画4本立てだゾ!(ラーゲリの強制労働並)
とか御説教しちゃうかもネ。
まったくいまどきの若いモンは!(みたいなことがどこぞの石碑だかに象形文字とかで
書いてあったとか云う話はしょっちゅう聞くが、それ一体どこのどれだよとわたしは問いたい。
絶対デマだよなあ。誰かがきっと冗談半分でそんなこと書いたのがいつの間にやら
事実として歩き出しちゃった、定着した、みたいなことだとわたくしは睨んでおります。)
今日の深夜2:05からNHKでジーン・ハックマンのアクターズ・スタジオのやつ、やりますな。
再放送だけど、前に見たことあったかどうか忘れたのでとりあえず押えます。