國家は私達から、乙女の夢まで、取上げてしまふのでせうか。

描写

おれはある程度ならば物を論じることもできるし、たまにならポエムを書くことも出来る。
けれどなによりも出来ないのが「描写」だ。具体的に人物なり行動なりを書き記したい場合が
多々あるが、できない。まず、面倒。これが第一。他にも取材不足、現実から遊離して
生きてきた結果、単に能力に恵まれない、等々があるが、いずれにしろ、おれに欠けて
いるのは描写力だ。(って、「欠けている」って、だからどうしたと云われると、
もごもご言っちゃうゾ。おれがなにか書いたってカネになるわけじゃなし、でも、
おれ自身として、いつも自分の「描写力のなさ」が気になって仕方ないんだよな。)
だから、なに書いても大概抽象的、観念的、ポエミックになってしまう。
物事を論じるにあたり、具体的な例、描写が伴うと、説得力、説明力、以心伝心、
ミモーマモー、ウッチャンはついに結婚、ちはるはなんだかオシャレ主婦やってるし、
世の中わからんもんだ、ええとそれでなんだっけ?文章にいつも具体性が欠けているのだよ。
おれは。それが我ながら、いつももどかしいって話。
あといつだったか気づいたんだけど、なにか物を言うのに、映画だの小説だの音楽だのを
通してってのは一体なぜ?なんの役に立ってンの?だったらいっそ、ことばで言えばいいじゃん、
メッセージまんまでいいじゃん、ならばなぜ?フィクションの存在意義たるや?という疑問が
あったのだけれど、わかった、大事なのは「描写」、そこには一般に物事を論じる際には
抜けがちな具体的な街の風景、人物の肖像、部屋の中の様子、などなどがあるんだ。
それがミソ。とっても大事。「ふつうの人」に、そこではお目にかかれる。論議などには、
一体どこ行っちゃったんだ?って、おれがいつも心配になってしまうような人たちが、
その時々のいろんな人の心理の綾が、フィクションによる「描写」の中では出会えるんだ。
「論議」と「描写」、これはひとつになることは中々出来はしないけれども、
しかしお互いがお互いを補い合い、両方ともに欠けるにはふさわしくはない。
人間に、世界に関心がある以上は。